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おかしい。どう考えてもおかしい。 彼に何度電話をしても出ないし、メールをいくつ出しても返事はひとつたりともない。大学にも来ていないようだし……。 そんな日が何日か続くと、私は不安で不安でおかしくなりそうだった。 本当に自分がおかしくなる前に私は彼のアパートに行くことにした。行く度に私の首を絞めてくれた、あの彼の部屋に。 今日は朝から大学の授業がいっぱい詰まった日だったが、そんなことは彼の家に行くのを明日に延期しようなんていう気にさせる理由には少しもならなかった。大学なんてどうでもよかった。彼を失うことに比べたら単位をとることに何の価値があるというのだろう。 彼が住んでいるのは四階建ての、エレベーターもついていないようなアパートだ。けれど、外見も内装も大学生の一人住まいにしてはまあまあといったところだ。彼の部屋は三階の階段を上がってすぐのところに位置していた。 私は慣れた足取りで階段を上がる。ヒールの先が鉄製の階段を一つ上るたびにカンカンカンと耳障りな音を出した。 『僕は階段を上がってくる音で君が来たことがわかるよ』ずいぶん前に彼にそう言われたことがあった。 彼に会いたい気持ちが私の足を勝手に急ぎ足にさせるのだ。待ち遠しい気持ちが足の疲労感なんて簡単に忘れさせてくれるのだ。 いつものように階段を上がりきると、いつものようにチャイムを押することなく彼の部屋に入る。何度も何度も繰り返してきたいつもの動作。けれど、彼の部屋のドアを開けた途端、気がつかないふりなんて到底できそうもない強烈な違和感を覚えた。 彼の部屋が以前と違うことなど、目から入ってくる情報がストレートに頭に入ってきたとしたら一瞬でわかったはずだが、私はただ混乱するばかりで目の前の状況を理解することも整理することもしばらくの間できなかった。 彼の部屋はゴミで溢れていた。 あれほど綺麗好きだった彼の部屋とはどうしても思えなかった。私がこの前来た時には、ゴミどころかホコリのひとつまみですら床に落ちていなかった。それなのに今は、飲みかけのペットボトルや空き缶がいくつも無造作にうち捨てられ、大量のコンビ二弁当のパックは重なりあって小さな山のようになっていた。そこから気持ちの悪い色の汁がしたたって床を汚していた。部屋にひどい悪臭が立ち込めていた。 何かの間違いだと思った。もしくは、そう思いたかった。部屋を間違えました。そう言って出ていこうかという考えも頭を一瞬かすめた。でも何度もここに来ている私が、目隠しをされたってアパートの入り口からここにたどり着ける自信があるこの私が、彼の部屋を間違えるなんてありえない。そんなことくらいすぐにわかった。 めまいがした。突然どこか知らない世界に迷いこんでしまったような錯覚に陥った。 途方にくれて泣き出したいような気分だった。それでも、私は彼の名前を呼びながら部屋に上がった。私は彼に会いにきたのだ。そう、ここに来た理由はただ単純にそれだけだった。戸惑う必要なんてどこにもない、私は自分自身に強くそう言い聞かせた。 彼はちゃんと奥の部屋にいた。 私の知らない間に彼が引っ越していて別人が住んでいた、というほうが今の状況の辻褄は合うけれど、そんなことになっていたら私は彼に二度と会えないように思えて怖かった。 彼は布団にくるまって寝ていた。 もう一度名前を呼んだ。今度はもう少し強い調子で。それから、具合でも悪い?という言葉を付け加えてみた。それでも反応は同じ。無反応。 こういう時、普通なら彼の肩なり腕なりを揺り動かして起こすんだろうけど、彼にはそれができないことはよくわかっていた。だから私は辛抱強く彼の名前を呼び続けるほかなかった。いくらもどかしくても、そうするしか私にはできないのだ。 しばらくすると、やっと彼が反応を示してくれた。吐息ともうめき声ともつかない息遣いが彼の口許からこぼれると、心底気だるげに体を半分だけ起こした。 焦点の合わない目をしていた。ぼんやりしているというよりは朦朧としているという表現のほうが今の彼の表情により近い。 「……誰……?」 何を言われたのかわからなかった。彼が発した言葉はたった二文字だったし、しっかりとその二文字は私の耳に入ってきていた。それなのに『ダレ』という単語の意味が理解できなかった。 ダレ? ダレ? ダレ? ダレ? ダレ? 頭の中でエコーした。 やだ。なにふざけてるの? そう言って私は笑おうとした。彼が冗談なんて言う性格じゃないことくらい充分すぎるくらいわかっていたのに、私は笑ってやり過ごそうとした。でも実際には何も言えなかった。冗談でしょう? と訊けない雰囲気がただよっていることを自分で意識するより前にしっかりと体が感じとっていた。 寝ぼけているのかもしれない。見るからに起きたてだし、仕方ないことだ。そう思いなおして彼がちゃんと起きるのをそばでじっと待ってみたけれど、いつまでたっても彼は焦点があっていない瞳のままだった。かすんだ目をこらそうとしないみたいに無気力なままだった。 そばにいられなかった。 私は彼を残して部屋を出た。ドアを閉め、何事もなかったように私の足が歩きだした。でもそんな虚勢は数秒も持たなかった。階段を下りる途中のところで私はうずくまってしまった。 それから、どうしてこんなに心が乱れるのか必死で考えた。彼が以前の彼でなくなってしまったから? 私のことまでわからなくなってしまったから? 違うそれだけじゃない。私はこうなることをなんとなく知っていたような気がした。ショックだったけれど、驚いてはいなかった。 彼を他の人と同じ種類の世界にとどめておくための糸は、危うげな程細くて―――まるで彼が私の首を絞める手つきのように繊細で頼りないものであったと、私は胸が苦しくなるくらいよく知っていた。驚いていない自分に驚いていた。 驚いていないなら、何も悲しがる必要なんてないのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。彼を受け止める自信がどこからも沸いてきそうになかった。彼を放ってはおけない。それは間違いない。でも……私はどうしたらいいんだろう。 私は顔を上げて、立ち上がった。そして再び彼の部屋に足をむけた。どうしたらいいのか、また、どうすべきなのか、何も考えは浮かばなかったけれど、潔癖症の彼をあんな汚れた空間にいさせることがどうしようもなく哀れなことに思えた。 もう一度彼に『誰?』と言われたら、聞き流せるかどうか―――あるいは、すぐに立ち直れるかどうか、多いに疑問だった。彼の口からそんな単語は二度と聞きたくない。それでも、今の私に出来ることは彼のそばにいることぐらいだった。悲しいし、悔しいけれど、それ以外には何も思いつかなかった。 私の頭に冗談めいた考えが不意に思いついた。彼に誰か、と訊かれたら――あなたの部屋を綺麗にするために来た妖精よ、とでも言おうか。小人でも精霊でもなんでもいい。 ドアノブを握りしめた瞬間、彼がこうなっても、胸を張って彼女と名乗れない事が痛切に歯がゆく感じた。 妖精なんて笑わせる。妖精だと本気で名乗ろうとしている自分が酷く滑稽に感じられた。笑い声がのどからこぼれないのが不思議なくらいだった。 「ああ……」 口の中で私は彼の名前をつぶやいた。そうすれば以前の二人に戻れると信じているみたいに何度も何度も、呪文か何かのようにつぶやいた。 |