ナナ
部屋の天井が寝ている僕の鼻先までじんわりじんわり迫ってくる。そうかと思えば高層ビルの程の高さまで天井がものすごいスピードで離れていく。そんな夢を見た。 しかし果たして夢と言いきれるだろうか。自信がない。 今にも天井があるべき姿から想像も出来ない形へと歪んでいきそうで怖かった。そう思うと天井から目が離せなかった。時間の感覚なんてとっくに捨て去った僕がそれでも長い時間だと思うくらい天井だけをひたすら見て過ごした。 天井は一向に姿を変える様子はなかった。と同時に徐々に変形していった。どうしてそんな矛盾したことが一度に起こりえるかなんて僕が知るわけない。わからないけど、確かにそうなのだ。天井がグニャグニャと形を奇妙な姿に変えていった。目にうつる天井は少しも変わらないのに。 「―――」 無意識のうちに僕は声にならない声を出していた。タスケテと言ったような気がした。あるいは誰かの名前。合わせて考えるとその名前の人に僕は助けて欲しい、ということなんだろうか。けれど僕が心から思ったのはずいぶんと見当違いなことだった。 妖精に会いたい。 会いたいと思ってから気づくなんてどうかしているが、今日は部屋に妖精が来ていなかった。隣のキッチンからも妖精の気配はまるで感じられない。 あいたい。いますぐ。会いたい。 手探りで僕は布団の周りに残る妖精の気配の名残みたいなものを探そうとした。名残でも何でもいいから妖精の姿を鮮明に思い出すことができて、妖精の気配を確かに感じられるもの―――そんなものを探した。 不意に手に触れたのは妖精が読んでいた本だった。ここ最近の妖精はいつも何かしらの本を読んでいるイメージがある。僕は何冊かあるその分厚い本の中から一冊を無造作に手に取り、表紙をそっと手でなでた。 別に妖精が読んでいる本の中身に興味なんてなかったけれど、本を手にしただけでこんなに気持ちが落ち着くのなら、本の中にはもっと心が安らぐものがあるような気がしてきた。僕は本をひらいた。 始め、外国語か何かかと思った。でなければ何かの暗号。何か変だ。とっさにそう感じてページを次々にめくったけれど、無駄なことだった。読めない。一文字一文字を指でたどればそれは間違いなく見覚えのある日本語でしかないのに、それらが連なるとまるで理解できない。なぜだ。 試しに声に出してみようとした。でもそれを意味のある言葉として声に出そうとすると、本の上で気色の悪い虫が列をなしているようにしか見えなかった。僕は吐き気を覚えて再び布団の上にうずくまった。 かろうじてわかったいくつかの単語。精神的、歪み、こころ、病気。 何が何だか少しもわからなかったのに、なぜか僕は絶望的な気分になった。見るべきじゃなかった。妖精の本なんかに興味を持つべきじゃなかった………。ただ後悔の念だけが僕を支配した。妖精に名前を呼んで欲しかった。僕の名前だけを呼び続けて欲しかった。 僕は起き上がった。だるくてフラフラする体をなんとか制御しようとする。 体がどうしようもなく重い。こんなものを自由に扱えていた時期が本当にあったかどうかすら疑わしい。手も足も、それ自体が自由を束縛する枷のようだった。 しかし、それも虚しい努力にすぎなかった。 玄関のところには障害になるものなんて一つとしてないにもかかわらず、僕は転倒した。鉄製の扉に頭を強かにぶつけた。僕はその場に倒れたまま、惨めな気持ちで頭の激しい痛みに耐えるほかなかった。 僕は何をしようとしていた? この玄関の扉からどこに行こうとしていた? 妖精に会いにでもいくつもりだったのか? 馬鹿げてる。できるわけない。会えるわけない。 僕は悲しかった。嘆き悲しんでいるはずだった。痛みとともにじわじわと湧き上がってくるこの感情は悲しみ以外のなにものでもなかった。それなのにのど元からこぼれるのは狂ったみたいな馬鹿笑いだった。 布団の上とは違う、硬い感触の床を背中に感じながら、不意に妖精の言葉が頭をよぎった。今まで気にもとめていなかったのに、その時の妖精の口調も表情も克明に思い描くことができた。渇いた声。静かな泣き顔。 『ねぇ、このままじゃ……ユズルが壊れちゃうよ』 ああ、そうか。 グニャリ。また世界が音をたてて歪んでいく。僕にそれを止めることは出来ないみたいだ。 会いたい。いますぐ。あいたい。 |