カーナビに向かって再び柊が話しかける。
「わかっているだろう。ハマ。ヤマが暴走する前に止めるんだ」
今の話は、茜に聞かせるというより、ハマに自分の役目を再確認させるためのものだった。
『やっぱり僕にはできません』
「お前にしかできないことだ」
『だけど、できないんです』
「お前がなぜハマと呼ばれているか忘れたわけじゃあるまい。名前を呼ばれる、そのたびに自分の役目を意識させるためだぞ。まだ覚醒したばかりの段階だから、何も起こっていないが、本格的になったら、この街の破壊だけではすまない」
「だからって殺すの? そんなの許せないよ。絶対」
茜が口をはさむと、柊はわざとらしいタメ息をつき、やれやれと言って頭を振った。
「籠の中の鳥に同情すべきじゃない。かわいそうだからと言って空の広さを教えてやるのはお節介を通り越して残酷だ。ヤマはすごく色白だろう? どうしてあんなに白いかわかるか。日の光というものに、ほとんど当たったことがないからだ。研究所の外に出たのはこれが初めてだ」
「初めて?」
「ああ、初めてだ」
「でも、そんな風に見えなかった。街を走ってる時だって、別に挙動不審なところはなかったし……」
「ヤマの記憶力は並大抵のものじゃない。わたしの部屋にあったジオラマを覚えているか? ヤマはこの実験のためにあれよりももっと精巧で詳しいものを使って、この街における建物の配置や道順を頭にたたきこんだ。だからすんなりと移動でき、来たことがあるかのように振舞えた。けれど、内心じゃすごく緊張していたはずだ。顔に出ないからわからなかったかもしれないが」
「……。頭の中でシミュレートしただけだったってことですよね。想像だけで、そんなふうにできるものですか」
「研究所でモルモット扱いされている生活の中では想像を巡らせるくらいしか楽しみがなかったのだろう。もともとの下地に加えて、想像する能力が特化するのも当然だ。ハマは研究所で様々な訓練を受け、この『街』の建設段階から何度も下見をしてやっと地理を把握した」
研究所、という限られた空間から一歩も出られない生活。しかも、それは生まれた時から今の今まで続いていたというのだ。平凡であったが、それなりに楽しく、平和そのものの十九年間を送ってきた茜には想像もできないことだ。
「ヤマがどんなに優れた能力を持っているか、わたしがよく知っている。わたしも研究者のはしくれだから、あいつがどんなメカニズムで生まれたか解明したかったし、その能力を最大限に発揮したところを見たくもあった。だが……」
柊は額に手をあて、遠くを見た。
「わたしは、ヤマの肌の色を見るたびに心が痛んだ。日光をほとんど浴びずに育ったあの白さがわたしたち研究員を責めているように感じた。中身やその肉体の機能はともかく、外見は自分と同じ人間だ」
「……」
「出してやりたかった。外の世界に。しかし、どうやら間違っていた。だから実験は失敗した」
「……」
「実験というものは、成功、不成功にかかわらず、後始末はすべきなんだ。それは実験を始めた者の義務だ」
柊はアクセルを踏み、車を出発させた。どこにいくのかと思ったら、さきほどのヤマ・ハマと合流した地点に戻っている。
すぐに呆然と突っ立ったままのハマの横に車をつける。
茜は自分がとるべき行動もわからず、ハマにかけてやれるような言葉も思いつかなかった。そんな茜に対して、ハマは笑いかけた。今まで彼女が見たどの笑顔よりも切なかった。
「気がついてた? ヤマちゃんって一人称を極端に使わないんだ。自分のことには驚くほど無関心なんだよ。だから、ヤマちゃんは人のためにしか感情を動かさないんだ」
ハマの手が震えていた。
「どうして、そんないいヤツを僕が、手にかけなきゃいけないんだ」
「お前の人権を無視して拉致されたあげく、親友を殺せなんて、誰が聞いてもひどい話だよな。しかし、だ。ハマ、お前はどちらにしろ、これが片付いた後は自由だ。十年ぶりに家に帰れるぞ」
「できません!」
「強情を張る気か」
「不可能です。僕にヤマちゃんは殺せません」
いきなり柊は、ハマに足払いを仕掛けた。ハマは派手に転倒した。
「頭を冷やせ、お前は、お前のやるべきことをしろ」
そう怒鳴りつけるなり、柊は胸元から拳銃を取り出した。そして、狙いをヤマに定める。ペイント弾などではないことは、茜には直感的に察することができた。
「ちょっと、やめ……」
空気がはじけるような、凄まじい破裂音がする。その瞬間、ヤマの肩口から、血飛沫が舞う。
いきなり撃った柊に非難の視線を送る。しかし、漆黒へと肌の色を変えたヤマは、銃の衝撃に一瞬よろめいたものの、みるみるうちに回復していくのが遠めにもわかった。なんて、生命力。
「ハマ、お前以外じゃ駄目なんだ。わかっているだろう。先延ばしにすればするほど、ヤマが苦しむぞ」
「ヤマちゃん」
ハマは、フラフラと頼りない足取りで、ヤマに近づく。
「ヤマちゃん、正気に戻って。じゃないと、僕、ヤマちゃんを殺しちゃうよ」
その時、まるで獣の咆哮と、金属音を混ぜたような、耳障りな声が発せられた。これが、ヤマの声なのだろうか。
近寄ってきたハマに両手を広げて襲い掛かった。ヤマの指がハマの腕に食い込む。指の力だけで、皮膚を貫いていた。
「くっ」
ハマが苦痛に顔を歪める。その時、声が聞こえた。
「…………ハマ」
「ヤマちゃん? 意識がまだあるんだね。茜ちゃん、殺されたわけじゃないよ」
「知ってる。見えた」
ヤマは自分が試されていたことを短時間で悟ったようだ。それが「知っている」という一言に表れていた。
そんな会話が交わされる間も、ヤマの指の力はじょじょに強まる。さらに肩に食い込んむ。血がにじむ。
痛いよ、ヤマちゃん、とふざけ半分の口調で言おうとしてハマは固まった。
「殺してくれ」
冷たい口調だった。感情というものを、すべて押し殺したような、冷たさだった。
「何言ってるの?」
「頼む。人を、殺したくないんだ」
「ちょっと〜。自分が嫌なことを僕に押し付けないでよ」
肩の傷がじんじんと痛み出す。笑っている余裕を根こそぎ奪うほどの痛みだったが、それでもハマは笑った。
「お前が殺すのはヒトじゃないから大丈夫だ」
「何、その屁理屈みたいな言い分」
意思と言葉がチグハグだった。ヤマが自分の本能と死ぬ気で戦っているのが、手に取るようにわかった。
「たかがバケモノの命一つで、何百何千の人間の命を犠牲にすることはない」
たとえ、それが事実だとしても、ヤマに自分で自分のことを「バケモノ」なんて名称で呼んでほしくなかった。ハマにとって、ヤマはヤマでしかない。しかし、決して「バケモノ」じゃない、とヘタな慰めを言えるような外見の変化でないことが、余計に悲しい。
「ヤマちゃん天然なんだよ。だからすぐに騙されちゃって。何百何千の人間の命を犠牲にする? そんなの本部の人間のウケウリでしょ? どーせ嘘だって」
ハマは努めて普段どおりの声でしゃべったつもりだった。でも、少しだけ、うわずった。ほんの少しだけ。しかし、ハマの内心を見透かすことなど、ヤマにとってはそのわずかな震えだけで十分だった。
「自信があったんだ。自分でも。感情のコントロールくらいできると思ってた。だから研究所の外に進んで出ることにした。でもできなかった」
できなかったんだよ、と虫の鳴くような声でつぶやく。
「お前には帰る家があるじゃないか。研究所で、よく家族の話をしてくれただろ。ハマの家の話を聞くのが、実は、密かな楽しみだったんだ。だからさっさと自分の任務を終わらせて帰れ」
「絶対いつか紹介するって言ったじゃん。忘れちゃったの?」
「わからないのか。無理なんだ。早くしてくれ、自分が抑えられない」
「やめよーよ、そんなこと言うの。僕、いやだよ」
茜は胸が苦しくなってきた。何の前触れもなく、今朝方の記憶が映像として蘇ってくる。それは、肩を上下させ、汗だくで茜の部屋に戻ってきたヤマの姿だ。
汗だくになって戻ってきた――その時は「ずいぶん走りまわったんだろう」くらいに軽く考えていた。しかし、その後、ハトから逃げている時には、汗一つかかず、呼吸を乱すこともなかった。どれだけ、必死に、懸命に、茜を探し回り奔走していたであろうことがよくわかる。
けれど実際に危険はなかった。囚人なんてもとからおらず、巨大生物もヤマの周り以外には現れないことになっていたのだから。それを知らないヤマは全身全霊で茜のことを心配していたのだ。
あの時点では、会って、二分も一緒にいなかった相手だった。そんな相手を真摯に思いやれるのだ。ヤマは。
彼を人間扱いしない連中と、どちらがバケモノだというのだ。
「どうにかならないんですか」
茜は柊の胸倉を掴んで力の限り前後に揺すった。
「わたしの明晰な頭脳をもってしても、難しい問題だな」
そんなどーでもいいことを聞きたくなんかないのよ! と茜は怒鳴りつけてやりたかったが、柊が何か言い始めたのでやめた。
「何か方法があるとしたら、だ。あなたが今朝からずっとしてきたことをやるしかないな」
イライラすることでも、質問攻めにすることでも、ないとしたら……。
「逃げるってこと……?」
「ご名答」
「どこへ?」
「決まっている。この街の外だ」
ぷちあとがき
すみません。大変お恥ずかしい話なんですが、自分で考えて書いた話なのに、自分が読んでいてとても切なくなります。
特に多少のことでは汗一つかかないヤマが汗だくになって茜を探していたということに気がつくくだり。ってかそのへんを踏まえて第5話を読み返してみて欲しかったり、欲しくなかったり(どっちなんだよ)
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