車を走らせ、ヤマとハマの姿が見えなくなったところで、柊は独り言のようにぼそりとつぶやいた。
「もういいぞ」
すると、後部座席で倒れていたはずの茜がむくりと起き上がった。カットの声がかかった女優のような豹変振りだった。
「ちょっとー。どうしてくれんの。服がべちょべちょになっちゃったじゃない」
「いや、すまない。喜んで弁償させていただくよ」
「本当でしょうね」
「ああ、本当だとも。それにしても、細かい打ち合わせをしたわけじゃないのに、いい演技だった」
「いきなり小声で『声を出すな。力を抜いて死んだフリしろ』って。何かと思うじゃない」
「さすがに演劇部に籍を置いていただけある。迫真の演技だった。死人の役が見事だった。やはり場数が違うせいかな」
「ちょ、なんでそんなこと知ってんのよ」
茜は去年までの高校三年間、演劇部で青春を謳歌していた。
同級生で、同じく演劇部の脚本担当が、鬼のシェイクスピアという異名を持っていた。名作を書くという意味では決してない。脇役だろうが主人公だろうが、異常に死亡率が高いシナリオを書くことで有名だった。
比較的いい役がもらえる三年生になっても、茜はバタバタと死ぬ役を好演した。
「むろん、リサーチずみだ。人選にぬかりはない。何かにつけてオーバーリアクションで、かつごく自然に死ぬ演技ができる人物を何ヶ月もかけて探し当てたのだからな」
な、何かにつけてオーバーリアクション? そんなのがポイントなの? 衝撃発言だった。
「課題は、相手に血が出る用意を何もさせずに、いかにリアルな血が噴出すペイント弾を作るかだった。一度に広がらずじょじょに血のりが染み出すよう特殊な細工を施さねばならない。そこで、わたしが作ったのだ。そのへんはわたしの専門分野ではないが、わたしにかかれば、容易いことなのだよ」
確かにリアルな血の広がり方だった。痛みはないはずの茜も本当に一瞬、頭が白くなったほどだ。
「ここまではすべて計画通りだ。完璧だ。さすが私が練り上げたプロジェクトなだけはある」
柊は自己陶酔するように、うっとりと空を見上げた。しかし、それも一瞬で、すぐに険しい表情に変わる。
「しかし、ヤマは思いのほかあなたに感情移入していたらしいな。もしや惚れたのか? ったく。ヒトらしいとこあるじゃないか。……完全に予想外だ」
そこで、カーナビと思しきものから音声が流れた。それは、ハマの声だった。
『いくらなんでもやりすぎですよ。だいたい、なんで茜ちゃんみたいないい娘を選ぶんですか。僕だって怒りますよ』
声は確かにハマのものなのに、別人のようだった。いつものふざけた口調じゃなかったせいだ。今聞こえたハマの声は語尾が震えていた。まるで、泣いているかのような震え方だった。
『茜ちゃん、聞こえる?』
き、聞こえているよ、と茜はとっさに返事をしたが、こちらからハマに声が届く仕組みになっているかどうかよくわからなかった。
『僕、茜ちゃんに謝らなきゃいけない。ハトから逃げている時のこと覚えてる? 茜ちゃん、ヤマちゃんは人間じゃないのかってきいたよね
』
茜はちゃんと覚えていた。ワイヤーアクションさながらに屋根の上を駆けていった時だ。あんまりにも人間離れした身のこなしなので驚いた。あの時ハマはなんと答えだろうか。そう、確か――『もしかして、気がついてなかったの?』そんなふうに言っていた。
「すぐに嘘だよってふざけて笑ったけど、あれが、嘘なんだ」
嘘なんだよ、とハマはもう一度、つぶやくように繰り返した。
『ヤマちゃんは人間なんかじゃない。少なくとも、本人は自分を人間だと思ってない。ヤマちゃんは、ヤマちゃんは……』
いったい何だっていうの……。茜は体温がすうっと低くなるのを感じた。
『兵器だよ』
ヘイキ、という単語がとても残酷に響きとして茜の鼓膜を振るわせる。
「政府の作った生物兵器だよ」
「まさか、始まったのか」
柊がカーナビに話しかけている。無線かなにかの装置が組み込まれているらしい。
『……ハイ』
か細い声でハマが答えた。
柊は舌打ちをしたかと思うと、カーナビのタッチパネルを使い、何か操作している。
「すぐに映像を送れ。急ぐんだ」
明らかに柊はイラだっていた。
「あの馬鹿が。わかりやすすぎるほど不自然にしたのに。このわたしが白衣を汚してまで自分で手を下すわけないことぐらいなぜ気づかない!」
忌々しげにそうつぶやくと、ハンドルに拳をたたきつけた。
「何がおこったんですか」
「ヤマが、ついにキレた」
「キレたって……」
「怒ったってことだよ」
それの何が問題なのか茜にはわからなかった。だって、いつも怒っているじゃないか。
柊は茜の内心を見透かしたように言葉を続けた。
「誤解されやすいんだがヤマはいつも不機嫌なわけじゃない。単に目付きが悪くて顔が恐いだけだ。本当にそれだけだ。誰も信じないし、一部の人間にしかあいつの感情を読み取れないが、機嫌はすこぶる良好だ。たいていはな。むしろ怒ることがない。めったなことじゃ怒らない」
ハンドルを切り、民家の駐車場に目立たないようにとまった。
「いや、少し違うな。怒らないんじゃない。怒ることができないんだよ」
「怒ることができない?」
「あいつは怒りを押さえるのが苦手でね。一度怒りを覚えるとコントロールが利かないんだ」
その時、パッとカーナビの画面が切り替わった。
ヤマの姿が映し出されている。
呼吸が荒く、肩を苦しそうに上下させている。発作でも起こしたかのように、ひどく不規則で浅い息遣い。
「ねえ、これって具合が悪いんじゃないの? 大丈夫なの?」
「大丈夫か否か訊かれたら、否だな」
不意に、ヤマの見た目にはっきりとした変化が現れた。病的一歩手前までに白い肌。その色がみるみるうちに変わっていく。
最初は薄いオレンジ、それが徐々に赤みを帯び、燃えるような深い紅の色となる。それがすみれ色となり、墨を流したような見事な漆黒へと変貌した。
「さながら黄昏時が夜に変わっていくようだろう? あれこそがヤマの名前の由来だ」
どのへんがヤマなのかわからないという顔を茜がしていると柊が簡単に解説を加えた。
「夜の悪魔と書いて、夜魔(ヤマ)だ」
「夜魔……」
すっかり肌の色が変わったヤマは苦しげに頭をかかえ、その場にうずくまってしまった。
「ヤマは、政府の研究所で生まれた。二十年前の話だ。遺伝子操作によって人間を超える人間を作ろうとしていた研究チームが作り上げた。……しかし、本当のところ、偶然の産物らしいな。ヤマが誕生したメカニズムは現在も完全には解明されていない」
悠長に説明なんてしている場合なんだろうか。茜はそう思ったけれど、今の柊には言葉を横から挟むことのできない、そんな険しいオーラが出ていた。
「あいつは、生まれた直後から奇異な存在だった。通常ありえない生命力と運動能力を備えていた。そして、成長するに従って、その能力は磨きがかかった。研究者たちは喜んだよ。ヤマも顔は厳しいが、温和な性格なので実験対象としてはすこぶる扱いやすい。ところが、だ。しばらくして、重大な欠点が露見した」
柊は背もたれに体を預ける。と、ミラーごしに茜と目があった。
「感情が高ぶり、頂点に達した時、自我が失われることがわかった。これが、どんなに研究所の人間を震え上がらせたか想像がつくか」
「…………」
「世界一早い車があったとする、しかしその車は何らかのきっかけで、コントロールがきかず暴走するということがわかる。どう思う? すごく危険だと思わないか。研究所内でも意見が分かれた。即刻ヤマを処分すべきと主張する者もいれば、唯一無二のサンプルを見す見す失くすのは惜しいと言う者もいた」
この口ぶりだと、ヤマは完全に人間扱いされていない。話を聞いただけで、茜は嫌な気分になった。
「幾度も話し合いは続けられたが、結論はでなかった。そこで、双方の妥協案が出された。いつでも処分できる体勢をととのえ、その上でヤマの研究を続けることにした。そこでハマの登場というわけだ」
「ハマ?」
「少々頭を使ってみればわかるだろう。魔を破ると書いて、破魔(ハマ)だ」
「だって、処分するための……え?」
「そういうことだ。ハマはヤマを殺すための人材として育て上げられた。そのために、誘拐されたんだ。そして、ヤマを処分するためだけの訓練をずっとあいつは受けてきた」
『ハマ』は『ヤマ』を『殺す』ための人材として――。
「そんな、そんなのってないよ! だってあんなに仲よさそうだったじゃない」
「ヤマがこの状況にどう反応し、どう対処していくか、それを見るための実験だと言ったろう」
「……」
「ヤマが危険なのは怒りを覚えた時だけ。それ以外ならば、特に害はない。つまり、どんなにストレスをかけられようとも、感情をみだりに高ぶらせることがない、そういう結果をえるための実験というわけだ。
ヤマは危険な存在ではないと、本部の連中を説得するのは、これぐらい大掛かりで手の込んだことをする必要があった。研究所の外にヤマを出すことを認めさせるためにはな。だからヤマを外に出したいがためにハマもこの実験に協力した。ヤマのためにヤマを欺き続けた」
柊は、だが、と言って眉をひそめた。
「……だが、完全な失敗だ」
完全な失敗。それが意味することは――。
ぷちあとがき
こう、自分で言うのも何なんですが、無計画に気の向くまま書き進めてきたので、自分が書いた展開に自分で驚いたりします。アホですね。
ヤマ、ハマの漢字は実は開始当初から決めていたのですが、まさかこんな意味だったとは。へえ。
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