すっかり忘れてたけど、朝から何も食べてないんだった……。
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「ホラ、どうした。行くぞ」
早希は差し伸べられた手をじっと見つめた。きっと、この手をつかんでしまったら、自分の知らないところへ連れていかれ、遠い外国に売り飛ばされ、そして両親には二度と会えないのだ。
絶対に無理。そんな人生受け入れられない。
なかなかベッドの下から出てこない早希をヤマは強張った顔で見つめていた。誰が見ても苛立っているようにしか見えないが、内心ではそれほど腹を立てているわけではなかった。ただ、困ったなあ、とため息をつきたい気分だった。
ヤマの本質的な性格は、周りが思っているよりも実はずっとのんびりしている。根気強く何かに取り組むことが苦にならないタイプだ。
しかし、状況判断をする限り、のんびりしている場合ではないので、迅速に行動しようとせかせかしているだけなのだ。状況が状況なら早希と根気比べをして、早希があきらめるなり納得するまでずっと待っていても別に構わないのだが、今はそんな場合ではない。緊急事態なのだ。
ヤマは強硬手段に出た。腕をベッドの下に差し込むと、早希の手首を素早くつかんだ。そのままずるずると引きずり出す。
「痛いっ」
ベッド下から出てきた早希が顔を歪めると、ヤマはとっさに手を離した。
早希はそのわずかな隙を見逃がさなかった。脱兎のごとく駆け出しヤマの横をすり抜けた。
そのまま玄関から脱出する。そして即座に同じ階の角部屋に逃げ込もうとした。そこは母親の友人宅で、両親が不在の時には預かってもらうこともある。ノブをまわしたが、鍵がかかっていた。絶望的な気分になったものの、屈せずにチャイムを勢いよく押し続ける。
「おばさん! 早希だよ! 助けて! 変な男が! おばさん!」
すぐ後から駆けつけたヤマは、静かにするよう注意したが、その言葉に従う様子はない。多少手荒だとは思いつつも、再度早希の腕をつかみ、茜の時と同様に無理やりにでもひっぱっていこうとした。
「やだ。放して。やだって」
ついに早希は泣き出した。早希自身には泣いて同情を買おうなどという打算的な考えは一切なく、感情に任せて涙を流しているだけだったが、思いの外、情に流されやすいヤマは急に目の前の少女が気の毒になってきた。
「あ、あのな……」
「あたしを売り飛ばしたって、ケーサツに捕まるのは時間の問題なんだからッ。あたしに、き、キズのひとつでもつけてみなさいよ、絶対うったえてやるから! このバカ、キチク!」
早希は早口でわめいた。泣きじゃくりながらなので、非常に不明瞭な声だ。この時、少女が自分を極度に怖がっているらしい、ということがやっとヤマにも悟ることができた。
そもそも助けを求める必要などないことを少女はわかってくれていない。それどころか何か大きな誤解をしているらしい。
自分が助けにきたのだから、自分についてきさえすれば、安全なのだ。その点を理解してくれれば話が早いのだが、どう説明すれば納得してくれるのか、ヤマはとっさに名案が思いつかなかった。再び強硬手段に出ようとも考えたが、こう泣かれては、さすがの彼も気が咎めた。
「あのな、助けを求めても無駄なんだ。ここには誰もいない」
早希はあまり話を聞いていないらしい。というよりも、耳を貸す気が皆無らしい。ヤマの言葉を無視して、誰か助けてーと建物の外に向かって叫んでいる。
このままでは、危険が増す一方だ。こんな大声で自分の存在をアピールすることがどんなに自分の身を窮地に追い込む愚かな行為であるか。早くわからせなければいけない。
考えた結果、ヤマは、胸ポケットから鍵を取り出した。
この街の住人はすでに大多数の避難が完了しており、少女は何かの手違いで避難し損ねているのだ。それを納得させるには、今、この街には誰もいないことを実際に目で確認させるしかない。
少女が逃げ込もうとしていた部屋の扉に鍵を差し込む。と、難なく開いた。
ここの住民はとっくに避難している。さあ、早くお嬢ちゃんも一緒に逃げよう、とヤマは言おうとした。が、目に入ってきた光景を前に、別のことを口走っていた。
「どういうことだ……?」
無愛想で、表情がいまいちわかりにくいヤマだったが、その時ばかりは、はっきりと困惑の色を浮かべていた。
暗いトンネルの内部。明かりは前方のぼんやりとした懐中電灯の光だけ。
時間の感覚も、距離感も、完全に曖昧になっていた。ほんの二、三分前にトンネルの中に入ったような気もすれば、一日中こうやって這いつくばっているようにも思えた。
次第にトンネル内に満ちている圧迫感が茜の神経を蝕み出す。
足の動きを完全に止めてその場に倒れこむか、意味不明な言葉を叫び出してしまう一歩手前で、前方からハマの声が聞こえた。
「お待ちかねの休憩タ〜イム。右手に曲がりま〜す」
初めてトンネルが二股に分かれていた。言われた通り、茜はハマに続き、右の通路に入っていった。
と、すぐに通路が終わっていた。代わりに現れたのは、ややひらけた空間だった。小部屋のようになっているらしい。
暗さに目が慣れたと言っても暗闇に包まれた部屋には依然として圧迫感が漂う。しかし、手足を折り曲げて四つん這いの姿勢が長く続いた茜にとっては、関節を伸ばせる広さがあるだけで、溢れんばかりの開放感を味わうことができた。
どこからかカチっという音がして、視界が明るくなった。目を細めて周囲を確認すると、妙な部屋にいることに気がついた。
そこはおよそ四畳半ほどの広さがあった。壁はむき出しのコンクリートという味気ないものだ。天井にはこれまた素っ気ない蛍光灯。入り口のすぐ近くにスイッチらしいものが確認できた。
ここまでは、特に驚くことはない。だが、床には畳が敷いてあり、中央にはちゃぶ台と、その脇に座布団が二枚。その奥にやや小ぶりの戸棚があり、その上には電気ポットが置いている。
なに? この生活感溢れる部屋は。
「ささ、遠慮なく座って。今お茶いれるから。コーヒーと日本茶だったらどっちが好き? あ、お茶請けにクッキーがあるからコーヒーのほうが合うかな?」
と勝手に話を進めるハマに対して、茜はまったくついていけなかった。休憩といっても、こんな部屋が用意されているとは夢にも思わなかった。
戸棚の扉は横にスライドする様式のものだが、鍵がかけられるタイプらしい。ハマはおもむろに自分の胸ポケットから鍵を取り出し、差し込んだ。先ほどの金庫の中に、大量のダミーとともにあったあの鍵である。
戸棚からお茶のセットをてきぱきと取り出し、最後に出てきたのはミネラルウォーターとおぼしきペットボトルだった。それを電気ポットにどぼどぼ注いでいる。お湯を沸かすつもりらしい。
って、それを開ける鍵なんかいッ!
茜は全力で突っ込みをいれてやりたかった。もっと重要なものを開けるための鍵だとばかり思っていた。誰だってあんなに厳重に保管していればそう思う。それが、こんな庶民的な戸棚を開けるための鍵だなんて……。
しかし、怒鳴るとか、裏拳をくらわすなどという気力は、疲労困憊している茜からは微塵も湧いてこない。黙ってハマの動作をじっと目で追っているだけにとどめた。
疲れたでしょ、いいから座りなよ、というハマの言葉に操られるように、座布団の上に腰を下ろした。だが、茜はどうも納得がいかなかった。まるで化かされているような違和感がつきまとう。ハマから、尖った耳と黄色いしっぽが生えていても何の不思議もないような気がした。別にハマはキツネ顔というわけではなかったが、妙に似合っている。そんな自分の想像に少しだけ笑えた。
はーい、どうぞ、召し上がれ♪と異様にテンションの高い口調でクッキーを載せた皿を茜の前に置いた。園児がママゴトでもしているかのようだ。
茜は渋々ながら、クッキーをつまみ、かじる。口にいれてから、今までずっと空腹だったことを思い出した。こんな状況下だったら食料に絶対的な価値があるのかもしれない。少し、納得した。
コーヒーをマグカップに注ぎ終わると、ハマは自分も飲みながら、いやあ、可愛いコを目の前にして飲むコーヒーの味は格別だねっ、と軽口をたたいて一人で笑った。
茜はやや呆れながらも、このテンションについていけたら、人生楽しそうだなーと半分羨ましくなった。
しばらく黙ってコーヒーをすすっていると、
「ちょっと長めの休憩にしよっか」
とハマが提案した。
「大丈夫なの?」
「うん、ヤマちゃんが追いついてくるかもしれないし、さ」
そこで、茜は目の前の男が、たとえへらへらとした笑顔を崩さずとも、仲間のことをしっかりと気にかけていることを知った。巨大ハトやその他の計り知れない危険の中にさらされていると思うと、ヤマも、彼を心配するハマも、二人とも気の毒になった。
「二人とも、付き合いは長いの?」
「そうだね〜、ヤマちゃんとは十年来の付き合いになるかな。共同生活も長いし。ここまでくると生まれた時からずっと一緒いるような気がするんた。あれ? 僕とヤマちゃんって双子だったっけ? って時々考えるくらいだよ。名前も似てるしね」
「へえ」
「で、そのせいかどうかわからないけど、ごくたまーに、テレパシーに近いものを感じることがあるくらいなんだ」
さすがにそれは嘘だろうと茜は思ったが、とりあえず話の続きを聞くことにした。
「なんだか、今、ヤマちゃんが女の子を泣かせてるような気が……ひしひしと」
「そんな具体的にわかるの? 嘘臭いなぁ。もっと悪い予感がするとか、そういうんじゃないの?」
「実はそうなんだ。同時にすごく、嫌な予感がする。胸がざわつくよ」
「ハトに食べられちゃってるとか」
言ってしまってから、笑えないジョークだったかもしれないと茜は後悔したが、ハマはちゃんと冗談として受け取ったらしい。うわ〜。嫌なこと言うなあ、とおどけるようにつぶやいた。
「あのねえ、ヤマちゃんは茜ちゃんが思ってるよりずっと強いんだよ。たぶん、ハトに追っかけられた時も、茜ちゃんがいなかったら、勝ってたんじゃないかな」
「何? 私がいなかったらって」
「だから、ヤマちゃんってものすごい心配性なんだよ。茜ちゃんが部屋から逃げ出した時も一人でテンパってたくらいだし」
「そうなの?」
「妙にせかせかしてたでしょ? あれって人が見たらイライラしているだけにしか見えないだろうけど、茜ちゃんのことが心配で半分パニックになってただけだから。そーゆーとこ、かわいいよね」
可愛いという単語が日本一似合わない顔をしていると茜は思ったが、あえて否定することもないと判断して黙って聞いていた。
「ヤマちゃんは自分のことを低く見すぎる悪癖があって、逆に言えば、必要以上に人のことを気にしちゃうんだよね。例えば、茜ちゃんがハトの口ばしの餌食になりかけたとしたら、身を挺(てい)して助けてくれると思うよ。自分の危険とかには無頓着なんだ。あんな怖い顔だけど」
しかし、今の話を聞く限り、素手でハトとやりあう気でいるみたいな口ぶりだ。相手はあの三メートルの巨大ハトだ。いくら、運動能力に優れていると言っても、限度というものがある。
やっぱりおかしい。絶対におかしい。我慢できなくなった茜は率直に訊ねた。
「ねえ、あんたたちの正体ってなんなの?」
正体ぃ? と、ハマはどこかとぼけているように、あるいは茜をからかっているように首を傾げる。
「その服、何かの制服でしょ? さっき金庫を持ち上げた時も訓練がどうのって言ってたし、二人とも尋常じゃない体力の持ち主だし。普通じゃないってことくらい馬鹿でもわかるよ。そろそろ本当のタネ明かししたら?」
タネ明かしねぇ、とハマは独り言のようにつぶやく。畳の網目でも見ているように、視線を下に向けながら目を細くした。
「唐突だけど、僕の名前ってカケルっていうんだ」
「はあ? ハマ カケル?」
一昔前の芸人みたいだ、と茜は思いながら、突然名乗り出した真意を探ろうとハマの顔を見つめた。
ハマは少し、おかしそうに口の端をあげた。左右非対称で、やや皮肉が込められているようでもあった。
「ハマは苗字じゃないよ。そうだな、カケルだった、って言い方のほうが正確かな」
「だった? 」
「僕はある日突然ハマになったんだ」
「なにそれ。全然わかんない」
「全部聞く? それとも、掻いつまんで聞きたい?
全部話すと長いけど、要点だけじゃよくわかんないと思うよ」
中々に難しい二択だった。気になることは気になる。しかし、詳しく聞きたい好奇心よりも早く話を進めてもらいたいという欲求が勝った。なので茜は、じゃあ掻いつまむ方向で、と答えた。
「十歳の時だった。僕は誘拐されたんだ」
ぷちあとがき
そろそろ最終回とか言っておきながら、中々終わってくれないです。しかも右のスクロールバー短っ! 二手になんか別れるから話が長くなるんですよね。
ああ、まさに無計画小説。と実感。すいません、あと一、二話でケリをつける気でしたが、もうちょい続きそうです……。
どう収拾つけるか決まってないのに、何故か頭の中でヤマとハマの幼少時代の話が展開中。今、第三話くらいです。番外編や外伝って人生で一度も書いたことがないので、いつかはやりたいです。 でも、なんだかまた長くなりそうです。はあ……。
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