私、この先どうなっちゃうんだろう。本気でわからなくなってきた。


 逃げなければ、という気持ちだけが空回る。しかし、ここは高層マンションの六階。窓から逃げるのは早希が小さな子供でなくとも不可能だった。

 かなり遠くにいた巨大ハトを見かけただけで取り乱す早希が、こんなに間近にせまった危機に冷静に対処できるはずもない。

 そこでとった行動とは、再びベッドの下にもぐることだった。

 理由はなんとなく、安心感が欲しかっただけであり、単なる現実逃避に他ならない。しかし、もぐった途端、フローリングの冷たい感触がいくらか早希の頭を冴えさせた。

 ベッド下の隙間にいるところを今の男に目撃されたわけではない。部屋に誰もいないとなれば、カーテンの裏側だとか、クローゼットの中にいると思うのが普通だろう。そこを覗き込んでいる隙をねらって部屋を飛び出せば、逃げるチャンスはある。そんな計画をわずかな時間でたてた。

「三分たった。悪いがのんびりとはしていられないんだ。開けるぞ」

 ゆっくりと扉が開かれる気配が伝わってくると、緊張感が早希の小さな身体を雷のように駆け抜ける。声をあげて泣きたい気分になったが、なんとかこらえた。泣いたら確実に見つかり、そして殺されてしまう。恐怖による涙を、同じ恐怖で抑えた。

 床まで垂れているシーツの隙間からそっと様子をうかがう。角度の問題で男の足首までしか確認できなかったが、立ち止まっているところを見ると、不審そうにまゆを寄せながら部屋を見回している様子が簡単に想像できた。

 気が焦る。一秒でも早く逃げてしまいたかった。今すぐにでも猛ダッシュでドアの方に向かいたい。
 ダメ。もう少し、もう少し……。

 まずはベッドから一番遠い、クローゼットに向かう、と早希は予想した。ぱっと見て一番子供が隠れるスペースがありそうな家具だからだ。

 早く行って。お願い。

 しかし、なぜかまっすぐにこっちに向かってくる。

 え、なんでなんで? と思った時にはすでに遅かった。男はゆっくりと水色のシーツをめくりあげた。

 早希とヤマの目がばっちりと合う。それはもう「バッチリ」と効果音が聞こえてきそうなくらいはっきりと。何やってんだ? と冷たい目つきで早希を見下ろしていた。

 ああ、もう終わりだ。一瞬で全身の力がぬけた。

 ぐで〜と床で伸びる早希。早々と覚悟を決めた彼女は、あまりにも短い自分の一生をはかなんでいた。

「さあ、行こう。ここは危険だ」

 ヤマはベッドの下に向かって手を差し伸べた。

 正義の味方っぽいセリフに一瞬だけ早希は油断した。しかし、やはりどう見ても人相が悪すぎる。正義のヒーローは爽やかな好青年であるという強烈な固定観念の持ち主である早希には、ヤマは極悪人に他ならなかった。

 


 さすがに茜の体力は限界に近いところまできていた。ハトの脅威から逃げることに必死でどこに向かっているのか気にする余裕もなかったが、そろそろ「安全な場所」とやらに着いてもらわないと、呼吸困難で死にそうだ。

「あ、次の角を右に曲がるよ〜」

 疲れている状況においては、ハマの明るすぎる声音は無性に癇(かん)に障る。しかし、曲がってしばらくすると立ち止まったのを見て、茜は一息ついた。
 
 そこは、交番だった。ずいぶん過去のことに思えるが、今朝助けを求めにきたところだ。

 誰もいなくて無性にイラついた記憶が鮮明に蘇ってくる。

 ハマはそんな茜の心中を知るわけがないので、さっさと中に入っていく。茜もそれに続いたが、今朝と同じく、そこに人の気配はまったくなかった。『ただいま巡回中のため留守にしております。お急ぎの方は下記の連絡先に電話してください』という文字が並んだ白いプラスチックのボードの存在が空しい。

「ここが『本部』なの?」
 
 違うことはわかりきっていたが、一応訊いてみた。そうだったら茜は今朝の段階で救助されていたはずである。

「いやいや、そんなお手軽には本部にたどり着かないんだよね、コレがさ。僕もね、茜ちゃんを一分一秒でも早く安全な所に連れてってあげたい気持ちは山々なんだけど、もうちょっと我慢してね」

 茜はため息をつくのを必死でこらえた。あと数時間後には死ぬ、とかいう大嘘ついて時間を無駄遣いしたのは誰だったかしらね〜、とイヤミのひとつでも言ってやりたい気分だった。しかし、イヤミが通じるタイプではないことが、この数時間でなんとなくわかっていたので、あえて黙っていた。

 そうこうしているうち、ハマは『麻薬撲滅キャンペーン』とでかでかと書かれたポスターが貼ってある壁の前に立った。ポスターのことなど眼中に入っていなかったので気にしなかったが、冷静になってまじまじと見ると、はっきりと変だということがわかる。

 貼ってある場所が下すぎるのだ。
 ポスターとは人の目に触れるための代物なので、胸か頭の前後の高さに貼るのが普通だ。壁に他の掲示物があふれているならともかく、ポスターの上部分は完全に空白だ。明らかに何かを覆うためのものだとわかる。とても知能犯とは言えない隠し方だ。

 案の定、ハマはポスターの端をつかみ、ぺりぺりとはがしていった。すると、ポスターとほぼ同じ大きさの扉が現れた。金庫か何かが壁に埋め込まれているようだ。

 ほとんど厚みのない平たいボタンが一から九まで規則的に並んでいた。ハマはおもむろにしゃがみ込み、親指から中指まで三本を駆使してすばやく暗証番号らしい数字を押していく。二桁は優に越えているようだ。よくそんな長い番号を暗記できるなあ、と茜は感心してしまった。

 ガチャンと音がして扉が開く。何が出てくるのかと茜が覗き込む。と、若干呆れた様子で声をあげた。

「はあ? 何コレ」

「込み入った手段を踏まないと本部まで行けないって言ったでしょ?」

 中には、一回り小さな金庫があった。

 これもまた解除番号キーを押すことでロックが外れるようだが、ボタンは番号ではなく、AからZまでのアルファベット二十六個がふってある。それをハマは、今度は両手を使い、パソコンのキーボードの要領で押していく。

 英文か何かを打ち込んでいるのかとも思ったが、Gが七回続いたり、DとHが交互に三回繰り返されたりと、単語らしくない上、あまり法則性らしい法則も見当たらない。
 それにもかかわらず、先ほどよりもさらに多い数の暗証番号を驚くべき速さで押していく。迷ったりする素振りは少しもない。指が自動制御で操作されているのではないかと思うほどだ。

 どういう記憶力してるんだろう。
 茜はもう驚くより呆然としてハマの指先を眺めていた。

 あれだけ安易な隠し方をしていた理由がやっと理解できた。勘だけでこの暗証番号を当てることは天文学的な確率で不可能だ。

 ロシアのマトリョーシカのように、一回り小さな金庫がいくつもいくつも出てくると面倒だなあと心配したが、予想に反して金庫の中からは、ちゃんと中身らしいものが出てきた。

 何かキーアイテムになるようなものだとは思っていたが、中身はそのまま、鍵だった。しかも山のような鍵だった。キーホルダーがついているわけでもなく、無造作に無数の鍵が山積みにされている。種類も大きさもバラバラだ。

 えーと、とつぶやきながらハマは鍵の山をごちゃごちゃ動かしてお目当ての鍵を探しているようだ。
 つまり、このおびただしい数の鍵は一つを除いてすべてダミー。

 そうか。確か、この街の中にいるのはバケモノだけじゃなく、死刑囚、つまり人間も含まれているのだった。茜はヤマから聞いた話を急に思い出した。
 どこかで秘密が漏れても、こうして何重にブロックすることで本部にいる人間の安全を守っているというわけか。

 自分たちの他に襲われている人間がそう遠くない場所にいるかもしれない。そう思うと、鳥肌がたった。


「で、それは何を開ける鍵なの?」

「あはは。それはまだ秘密だよ」

 手を同時進行で動かしながら、なんとももったいぶった口調でごまかす。しばらくすると、あったあったと一つの鍵をつまみあげ、胸ポケットにしまった。そしてすぐにその鍵の入っていた金庫の扉を閉めた。カチリと再びロックのかかる音がした。
 そのまま外側の金庫も閉める、……のかと思いきや、中に入っていた一回りだけ小さい金庫の角をガッとつかんだ。何してんの? と茜が訊ねようとした瞬間、ハマはよいっしょ、と言いながらそのまま金庫を引きずり出した。

「ええーー」

 金庫が見た目どおりの重量ならば、そう軽々と持ち上がるものとは思えない。

「あ、あんたたちって、ビックリ人間なんだね」

「まあ、僕も血のにじむような訓練を受けてきたからねえ。いろいろ大変だったんだよ」

 で、肝心の、金庫から金庫を取り出す、という行動の意味を訊こうとしたが、その前にハマが口を開いた。

「念のため確認しておくけど、茜ちゃんって、暗所恐怖症とか閉所恐怖症とかじゃないよね」
「いや、特には」

「じゃ、大丈夫だね。今からこの中に入るから」

「どの中?」

「だから、この中だって」

 そう言ってハマが指差したのは壁に埋め込まれた金庫だった。
 意味が飲み込めず、とりあえずしゃがんで中を覗き込むと、茜は、あ、と声をあげた。

 金庫の中はトンネルになっていた。

 つまり、金庫の扉だと思ったのはトンネルの入り口の扉であり。その入り口を鍵の入っていた金庫がふさいでいた形になる。

 交番の蛍光灯から射す明かりだけでは行き止まりが確認できない。これは相当な長さになっている。交番の裏手がどうなっていったか思い出そうとして失敗した。

「この中を移動するの?」

 大判のポスターとほぼ同じ大きさとは言え、人が立って歩けるだけの大きさは当然ない。この中を進むためには這うようにして行くしかない。

「全力疾走の後に匍匐前進(ほふくぜんしん)なんて申し訳ないんだけど、セキュリティーのためだから我慢してね」

 確かにこの狭いトンネルの中にあの巨大ハトは入ってこられないだろう。しかし、無駄に疲れそうだ。

 ハマは何処からかペンライトを少しだけ大きくしたような細身の懐中電灯を用意していた。

「じゃあ、さっそく行くよ〜。ちゃんとついてきてね。あ、疲れたら声かけてよね。今度は休み休み行くから」

 と、懐中電灯を口にくわえてトンネルの中に入っていった。
 茜は、ここで立ち尽くしていたいら楽だろうな、という想像を一瞬だけした。けれど、ハトだけじゃなく、何が起こるかわからないこの街に独りきりでいる恐怖を考えると身体が疲労することなんてどうでもいいことだと判断した。すぐにハマに続いて入った。

「あ、悪いんだけど、扉は閉めてね」

 相変わらず明るく能天気な声に、茜はどうしてそんなにマイペースでいられるのか本気で不思議がった。けれど、ぐずぐずしているうちに新たな脅威が後ろから迫ってくるようなことがあれば、こんな這いつくばった状態で太刀打ちできるわけもない。結局のところ茜には言われたとおりにする他の選択肢はないのだ。
 茜はつま先で引っ掛けるところをさぐり、扉を内側に閉めた。

 その瞬間、暗闇が深まった。


ぷちあとがき

 いかがでしたでしょうか。無計画の割りになぜか色々考えて、書いているうちに話が二転三転しました。結果、なんだかもう書いている自分がワケわかんなくなってきました。

 さてさて、無計画はどう収拾をつけるつもりなんですかね。清々しいまでに中途半端な結末も無計画的にはお似合いかもしれません……とか思ってみたりもします。

 

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