逃げるしかない。茜は早急にそう結論付けた。
あんな怪しげな連中に律儀に付き合ってやる義理などどこにもないのだ。
逃げるが勝ちだ。幸いここはマンションの二階。窓から外に出るとしても頭から落ちなければ死ぬことはまずないだろう。
しかし、勢いよくジャンプするのもやはり怖い。そこでシーツをベランダの柵に通し、両端を手首に絡め、それを少しずつ緩めて地面を目指す。
茜は極力慎重に行動したが、足を離して自分の全体重をかけた途端、布が手に食い込み鈍痛が走った。そして少しずつ緩めるたび摩擦による刺激が肌を傷つけた。
人ひとりの重さを自分の腕だけで支えるのは予想した以上に身体に負荷のかかる作業であると、茜は軽く舌打ちしながら理解した。
なんとか階下のベランダの柵に足がつくと、バランスを崩さぬように手をつき、一階のベランダに下り立った。茜はあまり近所付き合いをするほうではないので、ここにどんな人物が住んでいるのかまったく知らない。
おそらく茜がたてた物音に気がつくだろうから、そこで顔を出した住人に、警察へ連絡してくれと助けを求めようという算段だった。
しかし、窓は厚いカーテンによって少しの隙間もなく覆われている。窓の外側に面しているガラスも砂埃だらけで開閉が頻繁に行われているとはとても思えない汚れ方をしていた。そう、まるで人の気配を感じなかった。
ここ、空き家だったっけ?
茜は記憶をたどって思い出そうとする。
ここのマンションでは、一階エントランスにある郵便ポストの並びは部屋の位置関係とほぼ一致している。ということは、手紙やダイレクトメールを取り出す時、真下の階のポストも視界の端には確実に入っていることになる。表札がなければ自然と目につくはずだ。
しかし、どちらにしろ助けを求めることができないのであれば、空き家だろうが留守だろうが今は重要なことではない。
ここから百メートルも離れていない所に交番がある。そこに直行したほうが確実だと茜はすぐに判断した。
玄関からお行儀よく出てきたわけではないので、もちろん茜は靴下のままだったが、体裁なんてものは自身の安全と比べれば優先順位ははるかに低い。
ここのマンションは一階に庭のないタイプであるため、ベランダの柵のすぐ真下にはコンクリートの道が続いている。勢いをつけて柵をまたぎ、着地する。いつもなら足をプロテクトしてくれる靴がないため、地面と足が接触した瞬間、予想以上の痛みが足の裏に伝わった。が、なんとかこらえて走りだした。
ほどなく交番につき、安堵のため息が自然と漏れる。しかしお巡りさんの姿は見当たらない。代わりに『ただいま巡回中のため留守にしております。お急ぎの方は下記の連絡先に電話してください』という文字が並んだ白いプラスチックのボードが立てかけてあるだけだった。
警察のくせになんて役立たずなの! そこらへんの備品を残らずぶちまけてたりたい衝動をおさえつけながら茜は心の中で毒づいた。
しかし、そこで妙なことに気がついた。
ここまで来るのに、誰一人としてすれ違わなかった。また、人影も見当たらなかった。
今が何時であるのか正確には知ることはできなかったが、日の高さから見当をつけると、人っ子一人通らないような早朝ではない。だいたい、このあたりは駅からそう遠くない、交通の利便性がかなり良好な住宅地だ。おのずと朝は通勤ラッシュの少し前からサラリーマンや学生の姿でにぎわっている。
そして、なにより不自然なのは、自分の心臓の音がうるさくて仕方がないくらい静かだ。いや、静か過ぎる、と言っていい。
まさか、街から人がいなくなっている?
茜はそんな馬鹿げた想像を必死に振り払おうとして、独りで苦笑いを浮かべた。
しかし、平静を保とうとする茜の気持ちとは正反対に鼓動だけは加速し続けていった。
プチあとがき
なんでしょうね、この展開。窓から逃げるだけの話を書いていたつもりがいつの間にかこんなことに。
前に出てきた男の性格とか風貌を考えるのが面倒で、二人を登場させるのを先延ばしにしたのに、なんだか収拾のつけづらいことしちゃったよ。
まあいいや。ビバ☆無計画。
無計画なためどれが複線になるのかわからないので、無意味に意味深な描写がまじると思いますが、多分、大方がスルーされる運命にあるでしょう。
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