十七

 

 『じゃあね、杉浦くん』

 そこで電話は切れた。そして、二度と俺の携帯電話にかかってくることはなかった。

 俺は無音の携帯電話を耳に押し付けたまましばらくの間、動くことができなかった。

 心の整理がつかなかった、なんて言い方をすると、おおげさだけれど、今聞いたばかりの話をどう受け止めていいものかよくわからなかった。
 もっと厳密に言えば、彼女の話を聞いて自分がどう感じたのか、明確に言葉に表せなかった。こんな気持ちになったのは間違いなく初めてだった。

 数日前、痩せ細った親友を目にした時に感じたのははっきりとしている。

 同情とあきらめ。「ああ、やっぱりな。いつかこうなる気がしてた」そう思った。譲は昔から自分独自の世界を持った奴だった。同時に人一倍繊細だった。いつかその歯車が周りとかみ合わなくなる日がくる、そんな予感はずっとあった。そんなやっかいな性質に生まれついちまったあいつを正直に言えば心底哀れんだ。

 けれど、今の俺は哀れみも同情も感じちゃいない。
 それは彼女に対しても同じだ。顔を見なくてもわかる。電話越しに伝わってきた彼女の声は幸福感に満ちていた。こんないいコが恋人だなんて、譲が羨ましい……とさえ思った。

 彼女がそばにいれば、譲はきっと良くなる。もとの元気なあいつに、時間はかかってもきっと戻ってくれる。彼女の声を聞いていたら確信に近いかたちでそう思うことができた。

 それなのに。

 それなのにどうしても、今俺の中にある感情を言い表すのに、『希望』という単語がどうしても合わない。なぜこんなにやるせないんだろう。どうしてこんなに胸がしめつけられるんだろう。

 電話を置いた後、突然込み上げてくる不安を抑えられなくて、俺は急いで譲のアパートに向かった。けれど、すでに遅かった。その時にはもう誰もいなかった。

 譲と彼女はどこかに消えてしまった。俺の親友とその彼女は空気にとけるようにしていなくなった。 

 二人がどうなったかわからない以上、これがハッピーエンドなのかどうか判断する術は俺にはない。

 けれど、今の気分はまるでおとぎ話を読み終わって、本を閉じた後のようだ。

 安らかな午後のように、あるいは眠りにつく前のまどろみのように、静かで穏やかで、そのくせたっぷりと余韻の残るあの感じ。本を閉じる時のパタンという音すらどこからか聞こえてきそうだ。

 だからこれはハッピーエンドなんだ。少なくとも、俺はそう信じて疑わない。
 じゃないと、つらすぎる。つらすぎるよな。

 『昔々………』で始めるにはあまりにも俺の中で記憶が鮮明だけれど、あの二人にこれ以上ないくらいよく似合う言葉がある。

 俺は二人の気配がかすかに残る部屋に独り立ち尽くしながら、静かにつぶやいた。



「二人はいつまでもいつまでも幸せに暮らしました、とさ」


 

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