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まるで奇跡を目の当たりにしたような気持ちだった。名前を呼ばれるなんてささいな行為をこれほど大きな喜びとして感じられるのはきっと私くらいなものだろう。 あのまま彼が正気を取り戻し、何もかも元通り……っていうふうになったら感動的だとは思うけど、そうはいかなかった。 次の日になると、もしかして夢か何かを見ただけかもしれないと自分を疑いたくなるくらい、彼はまた焦点のあわない目でぼんやりと私を見るだけだった。私の名前も呼んでくれない彼に逆戻りだった。 また彼の携帯電話から杉浦くんに電話をかけた。 杉浦くんが彼と違って気さくな人柄で良かったと思う。もし、杉浦くんが彼のような人だったら、心を開くのも開かせるのも、もっと時間がかかっただろうから。 だからなのだと思う。知り合って間のない杉浦くんに、今まで誰にも話さなかった彼のことを……彼と私のことをありのままに話すことができた。 彼が私の首に触れるのを好んだこと。一度だけ首筋に彼の唇が触れた感触。その後泣きじゃくる彼のこと。できることなら自分の胸の中にずっとしまっておきたかったことを素直な気持ちで杉浦くんに話すことができた。 言葉を紡げば紡ぐほど不思議なことに彼とたわいのない話をしている時とよく似た感覚を味わうことができた。 数回まばたきを繰り返しただけで涙が私の瞳からこぼれた。あまりにも静かに流れるので、生理現象というより自然現象みたいな涙だった。それでも、泉が湧きあがるようにとめどなくあふれ出してとまらなかった。 私は持っていた携帯電話を握りしめて、杉浦くんに泣いていることが伝わらないようにゆっくりと深呼吸をした。そして、また言葉を続けた。 「彼が普通の人と違うことなんてわかってた。それから、それが世間一般に異常と呼ばれる域に達していることも」 自分で口にしたイジョウという単語がどこか特別な響きをともなって聞こえた。少し前なら………彼と出会う前の私なら、その言葉を好ましくないものとして口にしていたはずだ。けれど、今なら異常という言葉に愛を込めて言うことができる。 「でもね、彼はわかってなかったのよ。私も………彼と同じように異常だってこと」 そう。そうなのだ。私は心の中で反芻した。私も同じだった。彼と同じだった。 「私はね、あの人にキスされなくても抱きしめてもらえなくても平気なの。ただ、あの誰にも出来ない彼独特の優しい手つきで私の首に触れてくれるだけいい。それだけで私は充分満たされるの。私は彼にそのことを伝えるのを忘れてた。まさか彼をこんなに追いこむことになるなんて思いもしなかった」 杉浦くんは何も言ってこない。それでも、なぜか、私の言葉にじっと耳をすませてくれていることだけはしっかりとわかった。 「私はただ、あの時私がどれだけ幸せだったか、そして今も充分すぎるくらい幸せだってこと、彼にわかって欲しいだけ。」 いつものように布団にくるまっている彼をそっと見た。寝てはいない。ちゃんと起きて私の話を聞いている。ユズル、と口のかたちだけでささやいた。一瞬、彼が以前と同じやわらかい笑みを浮かべたような気がした。 『譲も幸せだよ。絶対。キミみたいな彼女がいるんだからさ』 杉浦くんが唐突に言った。もしかしたら、それは哀れみに満ちた慰めの言葉だったのかもしれない。でも、その時の私には、それが心からの祝福の言葉に聞こえた。 「ありがとう」
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