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 杉浦くんと別れて彼の家に戻ると、私はあることについて考えをめぐらせていた。

 ………こんなことがあった。彼と知り合う前のことだ。一通の手紙が私の元に届いた。

 前略とか拝啓とか手紙の形式を重んじるような言葉は一切なかった。それどころか、こんにちはなんていう簡単な挨拶も、どうしてこの手紙を書くにいたったかという説明も一字たりともなかった。ただ溢れ出す気持ちを抑えきれず、突発的に書き出したかのようだった。

『自分は生きている価値も意味も全くない絶望的なクズだ、という思いがどうしてもぬぐえません。絶えず頭にまとわりつき―――そう、それはまるで自分の影と体が分離不可能なのと同じ執拗さです。片時も離れてはくれません。そしてそれは現実に存在するどんな殺人鬼よりも恐ろしいのです。いつか自分がその凶悪で残忍な考えに殺される日が来るのではないかと思うと震えが止まりません。どうか、助けて下さい。この苦しみから救い出して下さい。』

 それは手書きの手紙だったけれど、意図的に筆跡を変えたみたいに、一字一字がワープロのゴシック体のような均一で正確な文字でつづられていた。差出人の名前はなかった。性別すらはっきりしなかったのに、私には直感的にわかった。これがラブレターであると。

 なぜそんなふうに思ったのか自分でもうまく説明できない。それでも、愛情表現のような言葉が一つもないこの文面から「あなたが好きです」という言葉と同じくらいのひたむきさを私は感じることができた。

 文字を一つ読むたびに無機質な記号でしかないはずの漢字やひらがなたちが私に必死に訴えかけてきた。それはあまりにも鮮やかで心のこもった訴えだった。書いた本人の心の手触りまでがはっきりと伝わってくるようだった。

 絶望的なクズ、という部分だけを私は何度も読み、指先でなぞりながら心の中で繰り返しつぶやいた。
 今でもその手紙は大切にしまってある。

「……絶望的なクズ……」

 無意識のうちに口に出していた。静かな闇にすぐに吸い込まれてしまいそうなか細く頼りない声だった。泣いている自分がいて少しだけ驚く。ぼんやりとした彼の瞳がかすかに揺れ動くのがわかった。

「ユズルは絶望的なクズじゃない。絶望的なクズなんかじゃ、ない」

 涙が後から後から溢れ出してとまらない。胸がどうしようもなく苦しかった。それでものどの奥からこみ上げてくる嗚咽まじりの吐息と一緒に言葉をなんとか紡ぎ出す。ユズルに伝えたかった。私の気持ちを伝えたかった。

「だって私がいるじゃない。そうでしょ?わたしが……ユズルには私がいるから……」

 本当はもっと早く彼に言っておくべきだった。
 始めから彼に伝えておけばこんなことにはならなかったんじゃないかという気さえする。
 それでも、大切にしまっておきたかった。私にとってあれは包装紙で何重にもくるみ、誰にも触れさせないところで厳重に保管すべき種類の手紙であり、思い出だった。私だけの秘密にしておくことで私だけのものにしておくことができる気がした。

 私だけに向けられたあの真摯な言葉たちを一つでも口に出してしまったら、すべて幻になってしまいそうで怖かった。
 だから、彼にも話さなかった。本当はずっとあの手紙の応えてあげたいと思っていたのに。彼を救い出してあげたかったのに。

「ユズルは絶望的なんかじゃないよ」

 

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