10

 

 日々は淡々と過ぎていった。

 時間が止まったような錯覚さえおこしそうだった。それでも彼の状態は日ごとに悪くなっているのは確かだ。彼のやせ方はもう病的な域に達している。 

 このままじゃ駄目だ。私は焦りを感じ始めていた。どうにかしなければならないのに、なにも出来ない自分の無力さに今更ながら腹が立った。彼を助けるのに役立ちそうな本を読んだりしてみたけれども、どれも役立たずなものでしかなかった。彼を理解することも、元気づけることも、何一つとしてできないでいるのが現状だ。

 やはり誰かに助けを求めるしかないんだろうか。そんな考えが不意に頭をよぎった。

 仮に誰かに相談するなら、私の友達じゃ駄目なことは、最初からはっきりとわかっていた。彼のことをよく知りもしない人に、訳知り顔で適当なアドバイスをもらうなんて考えただけで耐えられなかった。

 彼の親、というのが彼の今の状況を知らせるのに一番妥当な相手であるのかもしれない。一般的に考えれば。

 けれど、ずいぶん前に親のことを話題にした時、穏やかな彼が露骨に侮蔑の表情を浮かべていたのを私ははっきりと覚えていた。彼にそんな顔をさせる人たちに――たとえ彼と血が繋がっていたとしても――私は好意をもつことも、まして信用することなんてとてもできそうになかった。

 ここのアパートの家賃や光熱費を引き落とすための銀行口座に毎月必要なだけのお金は振り込まれてはいるようだけれど、本当にただそれだけだった。電話の一本、手紙の一通、短いメールの一つもなかった。

 彼の友達の話は数えるほどしか聞いたことがなかった。それでも、数少ない友人の話を実際に数えたとしたらたぶん一番多いのは、『杉浦くん』の話だったと思う。

 良心の呵責を多少感じながらも、私は彼の携帯のメモリーから杉浦克也で登録されている番号を探し出した。

 メールアドレスのほうも登録されていたけれど、返事を悠長に待つ気にはとてもなれなかった。そしてじっくりと考えている心の余裕も私はすでになくしていた。寝ている彼を横目に私はキッチンの方へ行った。そして無意識に近いかたちで私は杉浦くんの携帯電話に電話をかけていた。

『もしもし……?』

 予想よりずっと早く―――たぶん呼び出し音が鳴ったのとほぼ同時に相手が電話に出たので私は一瞬面食らった。そして受話器から聞こえる声はどこか不機嫌で、何か言葉をかけることにどこかためらいを感じた。

『お前さ、大学にも来ないでどうしたんだよ? どーせまた一人で悩んでんだろ?なんかあったら俺にすぐ言えって何度言ったらわかるんだ?そうやってグズグズうじうじ全部一人で抱えこんでさ、人に迷惑かけたくないとかぬかすんだろ? 人に心配させんのも充分迷惑だっての。って、おい、聞いてんのか?』

 電話の向こう側は完全に私を彼と勘違いしていた。
 彼の携帯からかけているんだから当たり前だ。そう思ったけれど声からイメージできる人物像があまりにも想像とかけ離れていたので私は携帯電話を握りしめながら硬直していた。驚きのために私はなかなか反応を示すことができなかった。

 彼の友達なのだから、当然彼のような人だとばかり思っていた。繊細というか神経質というか……少なくとも、もっと穏やかで控えめな性質の持ち主なのかと。
 けれど、携帯電話から伝わる声の大きさといい、乱暴な言葉づかいといい、彼の友達には不似合いな気がした。私が彼の友達に対してあれこれケチをつけたり判断したりする権利などないのはわかっていたものの、本当に電話の相手が杉浦くんなのか疑わしいとさえ思えた。

 杉浦くんが彼の話の中に出てきたといってもどんなキャラクターなのか特定できるほどのものは記憶に残っている限りなかった。

 それでも、荒っぽい口調の中に彼のことを心配してくれているのがわかる確かな温かみのようなものが感じられた。
 私はそれだけで充分なような気がした。私の他に、彼のことを気にかけてくれる人がいたという事実に安堵した。それは涙腺がゆるみそうになる種類の、安堵だった。

 私は思いきって声をかけた。
「杉浦……さんですよね」

 相手の戸惑っているような吐息が伝わってきた。その直後に先ほどまでのまくし立てるような口調とはずいぶん雰囲気の違う声で、『誰?』と遠慮がちに言ってきた。私は手短に自己紹介した。

『へえ……あいつの彼女』 
 私は自分のことを彼女なんて言い方をして名乗らなかったが、客観的かつ簡潔に言えば、まあそういうふうにとられるだろう。キスすら程遠い関係でも、これほど長い時間を二人で共有してきたのだから。

 それから杉浦くんが彼の幼なじみであり、しかも同じ大学に通っていることが判明した。ひょっとするとキャンパス内ですれ違ったことくらいあるかもしれない。全然知らなかった。と私が言うと杉浦くんは親友の俺を紹介しないなんて相変わらず秘密主義だな、あいつも。といって苦笑いした。

 彼のことについて相談する人物としては杉浦くんは最適だと判断した私は、彼の今の状況を説明し始めた。綺麗好きだった彼の部屋がゴミに溢れていたこと。ずっと家で寝ている以外なにもしないとか食欲がずっとなくて痩せていく一方だとか……。そのため私が彼の家にずっと泊まりこんでいることも話した。

 自分で説明しながら、どこか表面的でうすっぺらなことしか口にしていない気がした。

 もっと切実で大切なことがあるはずだ。それを言わなきゃ駄目だ。
 心の中の私は強くそう主張していたけれど、うまく言葉にできなかった。彼の現状を話し続ける私の舌はこんなにもよどみなくすらすらと言葉を紡ぎだしているというのに、その一方で舌がもつれ、滑らかとは程遠い動きしかしていないような気分だった。

 彼が私の首に触れるのを好んだこと。そして何より彼がまだいつもの彼のままだった最後の時、彼の唇が私に触れたあの日。あの日のことを話さなきゃならないことは頭の片隅でわかっていた。あれが以前の彼と今の彼との境界線だったことははっきりしている。その前にいくつか兆候があったとしてもあれが決定打になったことは間違いない。

 泣いている彼を思い出すのはひどくつらいことだった。ただ涙を流しているだけだったならこんなに苦悩する必要もないのに、彼は泣きながら私を拒絶していた。拒絶していたのだ。

『今からそっちに行っていいかな』
 少しの沈黙の後、不意に杉浦くんはそう言った。そっち、というのがこの彼の部屋を指すことはすぐにわかったが、私は即答できなかった。

「え、でも……」
 私は意味のない言葉をつぶやいてお茶を濁そうとした。

 自分から今の状況を打破すべく、第三者の存在をもとめたくせに、私と彼の間に他の誰も介入して欲しくないという気持ちが私の中に根強く残っていた。
 それはただの独占欲にすぎないことなどちゃんと承知しているだけに、断固として杉浦くんの提案を拒否することはできなかった。それでも躊躇なく受け入れるだけの寛容さも持ち合わせていなかった。

『電話より直接会ったほうが話しやすいし、俺もあいつがどんな様子なのか見ておきたいんだ』

 承諾の言葉を口にするにはかなりの気力が必要だった。それでも、彼のためになることを信じて私は了解した。
 杉浦くんはニ、三十分もしたら行く、とだけ言って電話を切った。

 携帯電話を元の場所にしまうとこの部屋が―――彼との二人の空間が本当に静かなことを実感した。時間の感覚をなくさせる力すらありそうな静けさだ、そう思った。

 だだ、窓の外で降りしきる雨音を除けば何の音もしなかった。

 

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