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初めて彼が泣くところを見た次の日、私は彼を呼び出した。場所は彼の家にほど近い石段。いつも人気のないここに来ると、彼は必ず私の首を絞めてくれた。二人にとって馴染み深いところだった。 私は理由を知りたかった。彼がどうして泣いていたのか。どうして私をあんなに拒絶していたのか。だって、私はあの時、このまま死んでもかまわないと本気で思ったほど、これ以上ない喜びに浸っていたというのに、彼の反応はまるで逆だった。悲しみという苦痛に顔を歪ませて泣いていた。なぜ? 彼のことを充分に理解しているなんて思ったことはなかったけれど、それでもある程度は彼をわかっているつもりでいた。それなのに昨日の彼の行動も涙の意味もヒトカケラも理解できなかった。 彼は約束の時間に遅れてやってきた。律儀な彼にはとても珍しいことだった。それだけではなく、一目で何かがおかしいと思った。何が、と一言では言えないのだけれど、決定的に昨日までの彼と違っていた。 けれど私はそんなことにかまっている心の余裕はなかった。彼も昨日のことで混乱しているのかもしれないけれど、私だって充分に混乱していた。私は彼が石段に腰掛けるのを見届けると同時にいっきに質問を並べ立てた。何かの呪いの言葉みたいに私の疑問を彼にあびせ続けた。 「昨日はなにかあったの?」 それまでただ黙っていた彼が急に立ちあがったので私は驚いて、言葉を飲みこんだ。 「………うるさい! どうだっていいだろ!」 彼のノドに、怒鳴るなんていうことができる機能が備わっているなんて思いもしなかった。 けれど怒鳴ってしまったことに彼自身が一番驚いているみたいだった。驚愕の色が表情にありありと出ていた。 「ごめん。怒鳴ったりして……そんなつもりじゃ…」 怒鳴るという単語が聞き慣れないどこか遠い異国の言葉のように聞こえた。怒鳴るということについてあやふやな輪郭でしかイメージできず、たいして意味も実感できないような―――そんな曖昧な発音だった。 きっと彼は今まで怒鳴るという行為をしたこともなく、怒鳴るということについて語ったり考えたこともなかったに違いない。もしかしたら、今日この場で生まれて初めて怒鳴るという単語を口にしたのかもしれない。そんな風にすら思えた。彼は誰が見てもはっきりわかるほどうろたえていた。 「ねえ、教えてよ………」 私はその時、特に悲しくなんかなかったし、これから哀しくなるような悲劇的なことを言おうとしているわけでもなかった。それなのに私の声はまるで泣いているようにか細く震え、すすり泣いている時に発するような不明瞭で不鮮明な響きしかなかった。控えめに言っても私は涙をこらえているようにしか見えなかったと思う。 彼に怒鳴られた。そのことが自分で思っている以上に私を動揺させていた。 彼は石段にへたり込むようにして再び腰をおろした。そして彼はゆっくりと口を開いた。それでも、いったい彼がどの質問に答えようとしているのかわからなかった。あるいは、彼が自分で言いたいことだけをただしゃべっているだけなのかもしれない。 「君を初めて見た時、なぜだか首に目がいった。大学に入ってしばらくたった頃のことだ。初対面………というかその時はただすれ違っただけだったけど、とにかく見ず知らずの人の体の部分で最初に首に目がいくなんてまずないだろ? 少なくとも僕の人生の中ではそんなこと一度もなかった。しかも」 彼はそこで一呼吸おいた。ため息にも似た沈黙が流れた。 「君の首は特別に変わったところはなかった。君の首は君の年齢にふさわしい―――といったら変な言い方だけど、周りを見れば他にいくらでもいるようなごくごくありふれた首だった。確かに皮膚のたるんだ中年の首は醜いと表現することもあるかもしれないけれど、だからといって首は首だ。脚や腰のラインのように,綺麗だとか均整がとれているとか思うような対象じゃない。」 私は彼の言葉を聞きながら、醜い、と言った部分を繰り返し頭の中で考えていた。今の話の論点とはかなりずれていることを自覚しながらも、考えずには―――思いをめぐらせずにはいられなかった。 醜い、なんて言葉の語感をこれほどまでに言葉通りではなく言える人を私は知らなかった。醜いという単語を蔑みや卑下するニュアンスをまったく感じさせずに言える人が実在することに、驚きを通り越して衝撃を受けた。さすがに称えているとまでは言えなくとも、そこには否定的な意味合いを可能な限り穏やかかつ婉曲に言い表そうとしているかのような、そんな気遣いや配慮がミニクイというたった四文字からにじみでていた。 彼になら醜いと面と向かってはっきりと言われても、さほど傷つくことなく受け止められるような気がした。でも、冷静になって考えてみれば、私が年をとって首の肌に張りがなくなり、今の肌触りとはかけ離れたものになっても―――それでも彼に私の首を好きでいて欲しいという願いが、私にそんな風に思わせているだけかもしれなかった。 「でも、君を見かけるたびに首が気になってしょうがなかった。そのうち触ってみたい、なんて思うようになった。変だろ? 僕だってわけがわからなかったよ」 彼は自嘲気味な笑みを口の端に浮かべた。どうして首の話をしている時の彼はいつも自信なさそうにしているんだろう。何か後ろめたいことでもあるような暗い目をするんだろう。誇らしげであってもいいはずなのに。彼が私にするあの行為にはそれだけの、いや、それ以上の価値があるのに。 「全然変じゃないよ」 私は本心からそう言った。なのに、実際に口から出た言葉はどこか気休め程度にしかならない、慰めのような響きしかしなかった。彼の表情がいっそう曇っていくのがはっきりとわかった。 私は急いで弁解しようとして言葉を探した。 それは悲しい事に、否めない事実だった。 「これで満足?」 まるで決して口にしないと心に誓っていたことを拷問によって無理やり言わされた後のような口調だった。彼は怒りと悲しみ、そして恥辱にどうにか耐えている様子だった。別人にすら見えた。 私が何か言葉を口にする前に彼は立ちあがった。さっきのように荒々しい立ちかたではなかったけれど、すぐに彼がここから立ち去ろうとしているのがわかった。私はどうしようもなく不安な気持ちになった。だから、自分でも意識しないうちにそれまでの話と何も関係ないことを叫んでいた。 「私、あなたのこと好きだよ?」 すでに歩きだしていた彼の背中にすがりつくような気持ちで言った。彼はゆっくりと振り向いた。彼の顔にはいつもと同じ笑顔が浮かんでいた。けれどやはり何かが決定的に違っていた。 「僕もだよ」 言葉通りの意味なら何も問題なんてないのに、私は胸が苦しくて息がつまりそうだった。彼に首を絞められている時の心地よさなんて欠片もない、本当の苦しみだった。 僕もだよ。僕もだよ。僕もだよ。僕もだよ。僕もだよ。 私は彼のいなくなった階段にうずくまった。 嘘つき。私にはそう聞こえた。幻聴か錯覚ならどんなにいいか。でも切ないくらいにはっきりとわかった。 『嘘つき。僕のことなんて好きじゃないくせに』 「違う。そうじゃない」
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