僕にとっての世界はすべてが曖昧でおぼろげだった。

 現実と夢との境界線はひどくあやふやで、その二つを区別すること自体がすでに無意味なことだった。自分が寝ているのか起きているのか、覚醒しているのか寝ぼけているのか、それを確かめる術を僕はとうの昔に忘れていた。

 妖精は僕が寝ているすぐ横の壁を背もたれにして一心に何かの本を読んでいた。今まさに夢から覚めたような気もしたし、ずっと長い時間妖精を見つめていたようにも思えた。どちらでもかまわない。同じことだ。

 僕はうつ伏せの状態のまま、視線だけを動かして妖精を見上げた。この角度からだと妖精の白い首がよく見えた。美しいあごのラインも、そこから首に伸びる青い静脈の筋さえはっきりと見えた。

 触れてみたい。そんな感情が何の前触れもなく衝動的に僕のなかに溢れてきた。

 何かを欲する。そんな感情はとうに朽ち果てているとばかり思っていた。
 いや、少し違う。このまま寝ていたい、そんな消極的で何の生産性のない堕落した気持ちだけが僕にとりついていた。しいていうなら何もしたくない、それだけが僕の望みで、欲している唯一のことだった。それなのにこの胸に渦巻く感情はいったいなんなのだろう。

 僕は自分の中に芽生えた欲望に戸惑った。頭の中でこの衝動の手触りや輪郭を確かめるように何度も反芻する。反芻すればするほど、それはただ単純に、妖精に触れたい、―――それだけの感情だった。

 妖精は僕のことなど気にもとめないといった感じで本を読んでいた。文章を追う瞳だけが規則的に動く以外は微動だにしなかった。

 今なら、と僕は思った。何一つとして根拠になりえるものはなかったけれど、今なら妖精の首に触れても妖精は石像のようにおとなしく動かないでいてくれるような気がした。そして何事もなかったように本を読み続けてくれる。そう思った。

 なぜ妖精に直接首を触らせてくれるように頼まないのか自分でも不思議だった。一言でいい、その旨を伝えればきっと妖精は断わったりしないだろう。
 いつもの気遣いに満ちた表情で、食事の時にスプーンを差し出すのと同じようにそっと首を差し出してくれるはずだ。そんな妖精の姿をリアルに思い描くことだって簡単にできる。

 でも僕はそんなことをしたくなかった。「君の首を触らせてくれないか」そんなことを口にする自分の想像に寒気がした。

 僕は音をたてないことだけに細心の注意を払いながらそろそろと右手を動かした。
 指に鉛のかたまりでも巻きつけているかのようにひどく手が重く感じる。指一本ですら思うように動かない。まるで他人の指先を遠隔操作で無理やり言うことをきかせているみたいだ。自分の気持ちと、手自身が別々に自己主張をし、互いの行動を互いに邪魔しあっている。

 駄目だった。どうしてもできなかった。妖精の首に触れた瞬間のことを思い浮かべると、それだけで酷い吐き気と頭痛が僕を襲った。

 自分自身の手であるのにコントロールがきかないというのは何とも奇妙な感覚だ。僕の手は床から五センチもいかないところで無様にもがき、あがいただけで、そのまま死にゆく虫けらのように床に音もなく落ちていった。

 僕は虫けらだ。心の底からそう思った。

 

 

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