彼が私の首を絞める時のやり方は二通りあった。

 一つは二人が向き合い、正面から。
 いつもうつむきがちな彼がこの時だけは、私の首にまっすぐ伸ばしてくる腕と同じように、まっすぐな視線を私に向けてきた。彼の両手の親指が自分ののど元で交差しているのを感じながら彼と見つめあっている間、私はたまらなく幸せだった。

 そしてこの奇妙な行為が何度続こうとも、私の心臓はそのたびに緊張し、また興奮して動悸を繰り返すのだった。それこそ、口から心臓が飛び出す程に。けれど、もし本当に心臓が暴走し、口から外へ出ていくようなことがあっても、彼がほんの少し手に力をこめれば、首のところでちゃんと心臓を止めてくれるような気がした。それがたとえ、私の呼吸を永遠に止めることになりかねなくても、ちっともかまわなかった。そう、ちっとも。

 だから私は安心して自分の胸の高鳴りを味わうことができた。頚動脈にそっと触れている彼の指は私の心臓の動きを私よりも確かに感じているはずだけれど、そんなことは何の問題にもならなかった。

 二つ目は彼が私の後ろにまわり、まるで密かに殺人を企てようとしているかのような姿勢で。
 頻度から言えばこちらのほうが圧倒的に多かった。今日もデートの別れ際、別れを惜しむように彼は私の後ろにまわって首にそっと触れた。

 私の家のすぐそばにある人気のない小道でのことだった。少し行ったところにある大通りの喧騒が遥か遠くに聞こえた。
 やはり彼も人目を気にしているのか、確実に邪魔が入らず、他に誰もいない状況――彼の家や私の部屋などよりは外のほうが首に触れている時間が格段に短かった。けれど、私は不満に思うことはなかった。かえって彼の行為に濃密さが増すように感じた。

 そんな時、いつも私は日が沈む直前の空の色を連想した。夕日の名残であるオレンジ色と夜を象徴する濃紺が絶妙なバランスで混ざりあった、あの色―――思わず見入ってしまうほど見事なあの空の色は、ほんの数分で夜の闇に飲み込まれてしまう。あのはかなさと刹那的な美しさがほんの短い間私にもたらす心地よさと酷似しているように思えた。

 予想通り、数十秒程度で彼は私の首から手を離した。ゆっくりと。

 そして、いつものように振り向こうとした次の瞬間、私の首筋にいつも感じる手の感触とは全く別のものが触れた。その刹那、言葉にしがたいほどの甘い痺れと衝撃が私の体を駆け巡った。

 私のうなじに触れているものが彼の唇だということはすぐにわかった。わかったけれども、理解はできなかった。彼の突然の行動は私の考える気力も、思考回路さえも全て奪い去っていった。

 殺して!

 私はそう叫びそうになる自分の口を震える手で必死に押さえた。今、彼に殺して欲しかった。あの優しい手つきで殺して欲しかった。このまま永遠に目を閉じることができたら私は誰よりも幸せに死ねると思った。

 いったいどれくらいそうしていたんだろう。歓喜と恍惚の感情が溶け合って、時間の感覚があやふやになっていた。一瞬と永遠の時間を同時に過ごしたような気分だった。そして唇がわずかに震えたのを何かの合図のようにして、彼は静かに私の首から離れていった。

 私は首筋に残る彼の余韻を味わっていたかった。できることならずっと。でもそれはできなかった。彼が泣いているのに気がついたからだ。

 彼は間接を奇妙なくらいに折り曲げ、まるでこの場から、いやこの世界から消えてしまおうとしているかのように体を小さく小さく丸めて泣いていた。

 どうしたの?なんで泣いてるの?私はそうやって優しく声をかけたり彼の背中に手を回してなだめようした。けれどそんな考えは一瞬頭をかすめたにすぎなかった。そんなことを彼が少しも望んでいないことは私には確信に近いかたちでよくわかった。地面にうずくまり、顔を腕で覆い隠しながら全身で私を拒絶していた。 

 さっきまで、そうほんの数秒前までは私は首の後ろのただ一点だけで彼から愛されていることを鮮烈に感じることができたのに………。今は小刻みに震える背中に、うめいているような嗚咽に、彼のすべてに私は拒まれていた。

 男の人がこんなに感情を剥き出しにして泣いているのを見たのは初めてだった。けれど情けないとかだらしないとか少しも、一欠片も思わなかった。私はただ悲しかった。哀しくて、そして惨めだった。

 自分がこんなにも無力だとは思わなかった。

 私は静かに泣き続ける彼のそばで立ちつくすことしかできなかった。

 その日から彼の中の歯車が目に見えるほどの確かな早さで狂い始めていった。


 

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