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彼のことを人に説明する時、どう言葉にしていいものか、私はいつも迷ってしまう。 外見に特質すべきところなんて一つもないように思える。普通すぎて誰の記憶にも残らない、そんな感じだ。街中で彼の写真を片手に、この人を知りませんかと訊いてまわっても全員に首を横に振られてしまいそうだ。 それでは彼が極端に地味なのかというと、そうじゃない。派手ではないことは確かだけれど、だからと言って地味という言葉で表現できるものとは少し違う。人々に『地味』という印象すら残さない、彼はそんなささやかな存在感しか持ち合わせていなかった。 実を言うと、私も彼を初めて見かけた時のことをよく覚えていない。 学部が違うとはいえ、同じ大学に通っているのだから、何度も渡り廊下や学食、時には同じ教室ですれ違ったりしているはずなのに、彼の存在に気がつくのにずいぶん長い時間がかかってしまった。 それに、今となっては不思議でしょうがないのだけれど、何がきっかけで知り合い、どういう流れで付き合うようになったのかまるで記憶にない。気がつくと彼は私のそばにいて、かけがえのない人になっていた。季節が移り変わるのと同じように自然で、それがさも当然のことのように思えた。 人ごみに紛れ込んだら二度と探し出せないような彼の存在感と同じように、彼の中身もごくごく普通の人だ、と私は思っていた。けれどそんな私の予想はすぐに的外れな勘違いに過ぎないことが彼と長い時間をすごすようになってわかった。 私の前での彼は決して普通の人ではなかった。そしてますます彼のことを言い表すのに的確な言葉を探すのが難しくなってしまった。いったい彼をどんな種類のカテゴリーに属する人として分類すればいいのか、今でもよくわからない。 彼はよく私の首を絞めた。 そんな風に言うと誤解されそうだけれど、実際は、彼の手には少しも力なんてはいっていない。絞めるなんて言葉を使うにはあまりにも頼りなく、繊細な感触で、優しげですらあった。 けれど私にとっては首を絞められているも同然だった。彼が私に触れている。そう思うだけで胸の鼓動は急速に高まる。 彼は私の首以外には決して触れようとしなかった。手すら、私たちは繋いだことがなかった。 一緒にいる時、私と彼との間には不自然な物理的距離がいつも横たわっていた。何かのはずみで彼の指先が私の体に少しでも触れようものなら、彼は熱湯に誤って指を入れてしまった時のような素早さと勢いで手を引っ込めるのだ。 拒絶されている、誰しもがそう思いたくなるような仕草だ。最初にその反応をされた時は驚きのあまりなにも言えなかった。 「気にしないでくれないか」 彼は私から目を逸らし、うつむきながらそう小さくつぶやくだけだった。そして私ができることといえば、ただ戸惑い、うろたえることぐらいなものだった。 私には絶対に破ることも超えることもできない完璧な壁が二人の間に確かにあって、その壁を意識するたびに私はいつもどうしようもないくらい失望し落胆した。 その強固な壁を唯一彼が超えてくれるのが私の首に触れている時だった。なぜ彼がこんな奇妙な行為を好むのかわからなかった。けれど、ただ、彼の手のひらと私の首が重なり合う、それだけで私は充分彼を感じることができた。 彼と付き合うようになるまで、こんなに自分の首を気にかけたことはなかった。彼が私の首に触れてくるという行為が、私をからかうためのただの冗談やおふざけなどではないと悟った時から私はあらゆる神経を首に注ぐことを心に決めた。 それは決まって二人きりの時だった。映画を見た帰り道で、静かな夜の公園で、一人暮しの彼の家で。甘い雰囲気が二人を包み、ごく普通の恋人同士なら抱き合うなりキスするなりするような、そんな時に彼はそっと、これ以上ないほど優しい手つきで私の首を絞めた。 「ねえ、この行為には何か意味があるの?」 彼の吐息をすぐ後ろに感じながら私は訊ねた。言葉を一つ口にするたびにのど元に触れている彼の指先の感触をよりいっそう確かに感じた。 「行為?」 首を絞めている時の彼の声がいつもより優しく甘美な響きに聞こえるのは単なる気のせいだろうか。コウイ、なんていうたった三文字の言葉ですら愛おしく思える。 「だから…私の首にこうやって触れること」 「意味なんてない。ただ……」 彼はなんて言って説明すれば私にわかってもらえるのか思案するように口ごもった。どの言葉なら適切に表現できるか必死に考えているようだった。 このまま私が何も言わなければ二人とも永遠に口を開かないのではないかと思えるほど、長い沈黙の時間が続いた。その間も彼の手は私の首に絡みついたまま、決して離れなかった。 ずっとこのままでもいい。ずっとこうしていたい。 私はそんなふうに思った。けれど、もし、彼が私のした些細な質問に心を砕いているとすれば――彼を困らせているとしたら……。私が今一番恐れていることは彼に嫌われることだった。彼を不快な気持ちにさせていたらどうしよう。私は急に不安になった。後ろから首を絞められている状況では彼がどんな顔をしているのか確かめられず、いっそう強い不安に苛まれた。 不安な気持ちが恐怖というレベルまで達する少し前に、彼はそろそろと私から手を離した。 振りかえって彼をみると、特に悩んでいるようでも、腹を立てているようでもなかった。首を絞めた後にいつも浮かべる彼独特の表情だった。 落ち着きを取り戻した後のようであり、少し疲れたように気だるげでもあり、それでいて優しさに満ちた目をして私を見ている。いつもと何一つ違うところはなかった。まるで私が質問をしたことなんて完全に忘れているみたいだった。それとも、あの質問はなかったことにして欲しいと暗に言っているのだろうか。 私はそれならそれでかまわないと思った。私は話題を変える代わり前から気になってしかたなかったことを訊いてみた。 「いつも、こういうことしてきたの?」 彼は私の質問の意図を解していないようで、何も答えずにじっと私の瞳をのぞきこんだ。 「今までも、彼女の首に触ったりしてた?」 言葉を選んで言いなおした。言いなおしてから意味もなく、こんなこと言うんじゃなかったと後悔した。私は自分のことを『彼女』と言ったり彼のことを『彼氏』と表現する時にはいつも慎重にならざるをえなかった。 彼とはキスはおろか、手だってつないだことがないのだ。ただ、彼に首を優しく絞めてもらうという行為だけが二人をつないでいた。 そんな、他人からすれば異常としか思えない危ういつながりだけでは自信の持ちようがなかった。 彼と目があった。彼の好きなところをあげていけば切りがないけれど、彼の優しげで、それなのにどこか寂しげな目が私は大好きだった。 「違うよ」 彼はゆっくりと口を開いた。そのたっぷりと時間をかけた動作は、何か格別にすばらしいことを宣言しようとしているみたいだった。 「君の首だけが特別なんだ」 特別なんだ。という言葉が自分の首に絡みついてくるのを確かに感じた。 あなたもよ。私はそう言おうとしたのに嬉しさのためか、戸惑っているのか、あるいは泣きそうになっているのをこらえるためか、上手く口が動かなかった。ただ唇がかすかに震えた。 あなたの手も……私にとって特別なの。あなただけが特別なのよ。 |