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ずっとそばにいた

 

 

 

 His side

 一人で遊んでいると、別の部屋からお父さんの声が聞こえた。その声は自分のことを呼んでいるのだった。

 一瞬、体が強張る。何か叱られるようなことをしただろうか。三十秒ぐらいかけて今日一日を振り返ってみたが、思い当たることはなかった。
 さりげなくお父さんの顔色をうかがいながらそばに近寄ると、その顔には笑みが浮かんでいた。いつも怒ってばかりいるあのお父さんが笑っている。

 驚きのあまり呆然としていると、お父さんの手がこっちにむかって伸びてきた。とっさに身構えたが、予想に反してお父さんはまるで子猫をさするように頭を優しくなでてくれた。

 嬉しいはずなのに素直に喜べなかった。変な気分だった。頭をなでるお父さんを見上げながら、赤ん坊をあやす母親の子守唄が聞こえた。その優しげな声は隣の部屋からしているのに、まるで別の世界から聞こえてくるみたいに、遠く聞こえた。
 そう、その日は何かがおかしかったんだ。  


  My side

 きっかけはなんだったか………。

 秘密の隠し扉。そんなものに憧れていた。大人ならば、そんなものが一般人の家にあるわけがないことくらい知っている。
 でも小学生の僕は、学校の図書室で読んだアンネの日記にもろに影響を受けて家中を探してしまった。ホント言うと、僕だって本気で隠し扉があるとは思っていなかったさ。いくらなんでもそこまで無邪気な少年でも、夢見がちな子供でもなかった。

 単なる暇つぶし。その程度のものだった。その日は日曜だというのに、両親は共に不在で、いつもの遊び友達もみんな何かしらの用事で忙しかった。そして、僕は一人っ子。テレビにもゲームにも少し飽きていていた。だから一人でできて、なおかつワクワクするような遊びをしたいと思った。

 それで思いついたのがこの隠し扉探しというわけだ。

 自慢するわけじゃないけど、僕の家はこのあたりじゃ一番デカいんだ。さすがに豪邸とまではいかないけど、それでもかなり広いことに変わりはない。生まれた時からこの家に住んでいるとはいえ、家中くまなく探したら、隠し扉はなくてもなにか新しい発見くらいはできそうな気がした。

 アンネの日記では本棚の後ろに隠し扉があっただろ?だから僕も当然、真っ先に本棚の後ろに目をつけた。扉が隠せそうなサイズの棚は我が家には一つ。父親の書斎にあるものだけだ。

 だけど考えてもみてくれよ。子供一人で本のぎっしり詰まった棚を動かせると思う?本棚を動かすにはまず、本を一度出してしまわなければならなかった。

 思った以上に重労働。なんせ、ここの本はやたらと重いだけじゃなく、父親の本なのだ。自分のマンガならともかく、クシャクシャにするわけにはいかないだろ。

 慎重に慎重に、僕は念仏のように唱えながら本をていねいに床に並べていった。しかし、やっと動かすことができた本棚の後ろにあったのはただのホコリだけ。ヘコたれるよ。だけど、僕はあきらめなかった。裕福な家庭に生まれたから………か、どうかはしらないけど、僕は昔から人一倍負けず嫌いで、プライドの高さならピカイチだ。

 意地でも何か発見してやる。僕はそう心に決めて捜索範囲を広げた。

 家の壁という壁を叩きまくり、隠された空間がないかどうか調べた。少しでもまわりと違う音のする箇所がないか入念にチェックしたけれど、どこもかしこも普通の壁だった。

 それでも僕はめげなかった。それどころか、くやしさが僕の闘志に火をつけた。床も不自然な切れ目やでっぱり、へこみがないかすみずみまで見てまわり、自分一人で動かせる範囲の家具はすべて移動させてみた。しまいには広い庭の草の根をわける勢いで何かを探したけれども、やはり何も見つからなかった。

 本気で隠し扉があるとは思っていなかったけれども、僕はかなりがっかりした。せめて昔なくした宝物くらいは発見できると思っていたから。

 ふと時計に目をやると、隠し扉を探し始めてからかなりの時間が過ぎていることに気がついた。いずれは両親が帰ってきてしまう。父親の書斎を始め、僕は家中の家具や置き物をかたっぱしから移動させてしまったので、家の中はずいぶん派手にちらかっている。少しは片付けておかないと両親に叱られることは目に見えている。

 僕はひどく落胆したことに加え、かなり疲れていたので本当は全部投げ出して昼寝でもしたい気分だったけれども、自分でやったことなので仕方ない。僕はしぶしぶ片付けを開始した。

 探してまわった逆の順番から部屋をせっせと元の状態に戻していった。家具を移動させるという行為自体はさっきまでやっていたことと大差ないのに、宝探しのような感覚でワクワクしながらやるのと、怒られるのが怖くて仕方なくやるのではずいぶん違う。僕は何度も放り出したい気持ちと闘いながら、作業を進めた。

 そして、やっとのことでスタート地点の父親の書斎までたどり着くことができた。

 床に放置された分厚い本の山を見て軽くため息をつきながら、あともう少しだ、と自分で自分を励ましたその時、僕はあることに気がついた。

 まだ家の中で探していないところがあったのだ。お風呂やトイレまで探したのに、どうして思いつかなかったんだろう。完全に盲点だったとしか言いようがない。

それは………僕の部屋だ。

 毎日毎日、寝起きしている部屋にこれ以上探すべきところなどなさそうに思えるかもしれないが、僕の両親は金持ちのわりに部屋のインテリアだとかコーディネートだとかいうものに対してさほど興味を示さないタイプだ。そのため部屋の模様替えなんて僕の記憶にある限りでは一度だってしていない。大晦日の大掃除だってわざわざ家具をまるごと移動させたりはしなかった。

 もしかしたら…………。

 僕は期待に胸を膨らませた。さっきまで感じていた疲れなんてすべて吹っ飛んでしまうくらいワクワクした。さすがに隠し扉なんてものはないだろうが、きっと何か、僕の期待に応えてくれるものがあるはずだ。そう、きっとある。

 僕は父親の本のことは忘れて一階の一番奥にある自分の部屋へ飛んで行った。

 そして、壁やベッドの下の床を調べ終えると、勉強机を僕はまるでライバルを敵視するように睨んだ。僕の部屋の一番の難所は間違いなくここだ。ものごころついた時にはすでにあったこの勉強机、大きくて立派で僕の自慢の一つだったけれども、これを動かすとなると、話は別だ。僕は腕まくりしていた袖を再びまくり直して気合いをいれる。

「アンネの日記の隠し扉は目前だ!」

 芝居がかかった言葉を大声で言う。もちろん本気で言っているわけじゃなくて自分に活を入れるためだ。

 さっそく僕は書斎の時と同じ作業を始めた。教科書、ノート、筆記用具、それから引き出しにしまいこんだ様々なガラクタ。それらすべてを勉強机から取り出していく。空っぽになった僕の机はそれでも子供一人の力では重かったが、なんとか動かすことに成功した。無我夢中でやったので僕の額にはじんわりと汗が浮いていた。

 しかし、僕はその汗を拭うことさえ忘れて机が置いてあった床を凝視していた。
 長年、机を設置していたためにくっきりとその跡が残っているカーペットをめくると、僕が朝から必死に探していた床の不自然な切れ目がそこにあった。

 その切れ目は正方形で一辺が六、七十センチほどの大きさだった。似たようなものを見たことがある。うちの台所だ。母親が自家製の漬物や非常食なんかを入れるための物置のようなもので、ちょっとしたスペースを有効活用するために床に作られたものだったはずだ。

 それがなぜ、よりにもよって僕の部屋なんかにあるんだ?しかもこんな目につかないところに………。

 四角い切れ目の端の一部がちょうど四本の指が入るくらいにくぼんでいて、取っ手の代わりになっている。これは間違いなく、扉だ。それ以外考えられない。

 ………あった。本当に隠し扉が僕の家にあった。

 望んでいた展開のはずなのに、いつの間にか僕のワクワクはドキドキに変っていた。もちろん心弾むドキドキではなく、緊張と困惑の入りまじった不快な気持ちからくるものだ。嫌な予感がひしひしとする。

 僕は恐る恐るくぼみに手をかける。びっくり箱を開ける時だってこんなにビクビクしないだろう。けれど、僕はまるで何かに操られているみたいに扉を開けずにはいられなかった。

 ギシッ、ミシミシミシという木がきしむ音がして扉は開いた。そして………。

 僕の人生史上で最も驚いた瞬間だった。それこそ心臓が飛び出すくらいに。言葉を失うくらいに。いや、正確に言うと、驚いたなんて言葉は当てはまらない。僕は体が凍りつくほどの恐怖を覚えた。

 扉の中には人間がいたのだ。死体だったらまだよかったのかもしれない。が、そこにいたのは信じがたいことに生きた人間の男だった。

 男はまぶしそうに目を細め、次の瞬間、僕の顔を見てにやりと笑った。

 僕は予想もしていなかった事態にただ恐怖を感じた。
 男はけだるそうに今しがた僕が開けた扉から身を乗り出して外に出てきた。
 異常に肌の白い男だった。僕を頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺めると、不敵に、そしてどこか不気味に笑った。

「誰かと思ったらヒロユキじゃないか。はじめましてぇ。お前のお兄ちゃんだよ?」
「ぼ、僕に兄弟なんかいないよ」
 声がかすかに震えた。認めたくはないけど、足も一緒に震えた。

「知らないだけさ」
 男は声を出さずに息だけで笑った。

「もし、ホントに兄弟だったら、なんで、なんでこんなところに………」
 そう、まるで―――。
「閉じ込められてるみたいに、って?」
 甲高い声で男は笑った。さも心の底からおかしいことのように笑うのでかえって気味が悪い。

「お前の親父―――まあ、俺の親父でもあるんだけどな。そいつがやったんだよ。ヒロユキが生まれたと同時に俺をこんな暗くて狭いところに閉じ込めやがった。お前がいれば俺みたいな変人はいらなくなったんだろうな」

 男は僕に話しかけているはずなのに、どこか独り言めいた口調でつぶやく。

「おかしいと思ったよ。こんな出来損ないに、あの親父が優しくするわけがなかったんだ」
 隠し扉から出てきてから終始笑っていた男が初めて笑顔を崩した。悔しそうに、そして腹立たしげに顔を歪ませる男はなぜか僕とそう歳の変らない子供のように見えた。

 その瞬間、なぜか僕が生まれる前に撮影された古いアルバムに写っていた見知らぬ男の子のことが頭に浮かんだ。この子、誰? と母親に訪ねた直後に目の前で捨てられてしまったので、僕はたった一度しかその写真を見ていない。けれど、どういうわけか鮮明にその男の子の姿を思い出すことができた。

 そういえば、この男に面影が似ている――。

「ずっと聞いてたよ。お前の声をさ。この部屋の下でいつも………。毎日毎日楽しそうだなぁ。笑い声がたくさん聞こえたよ」

 ゆっくりゆっくりと男が僕に歩み寄ってくる。僕の本能が逃げろと警鐘を鳴らしていたけど、どういうわけか僕の足はちっとも言うことを聞いてくれなかった。

「今日もヒロユキの声はよぉ〜く聞こえたよ。お前、独り言つぶやいてただろ。アンネの日記の隠し扉だって?あの本ならここに入れられる前に俺も読んだよ」
 突然、男の手が僕の首に伸びた。白くて細すぎる指が首に絡みつく。

「アンネの日記のアンネがその後どうなったか知ってるだろ?彼女は日記だけ残して結局は、制収容所で病死しちまうんだ。いや、殺されても同然だよな。ドイツ人にさ」

 徐々に指先に力がこもる。
「そんなにアンネの日記が好きならお前も中に入れてやるよ。お前も日記ぐらいつけておけばよかったのになぁ。そうしたら誰かがこの扉に気がついてお前を見つけてくれたかもしれないのに」

 どうして僕の父親がこの兄だと名乗る男を閉じ込めたのか。はたしてこの男、本当に………生きているのか?だとしたら、どうやって生き延びたっていうのか。

 わからないことは山ほどあったけれど、僕にそれを知る術はなかった。僕の意識はそこで永遠に途切れてしまうのだから。

 薄れゆく意識の中で笑い声のまじったつぶやきが聞こえた。

―――やっぱりそれは無理だな。隠し扉を探したっていう今日の日記をお前が書く時間はないみたいだから―――。

 His side again

 窓の外を見ると、燃えるように赤い夕日が、今まさに沈んでいくところだった。
夕方、か。もうすぐお父さんたちが帰ってくる頃だろうか。
 動かなくなったヒロユキを見ながら、俺は思わずため息をついた。なのに、なおも笑っている自分が奇妙で、おかしかった。

「あ〜あ、またお父さんに叱られちゃうよ」

 

〈了〉

 

 

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