男が寂れた駅に着いた頃、暮れなずむ夕日が空を赤く染めていた。
改札口を出ると、バスの停留所の前に一人の若い女性が立っているのに気が付いた。女はキャスター付きの大きなトランクを脇に置いている。旅行者だろうとすぐに見当がついた。
「あの、失礼ですが、」
少しためらいがちな口調で声を掛けた。
「バスなら、待っていても来ませんよ。最終は一時間も前に行ってしまいましたから」
女は振り返って男を見ると、少し恥らうように笑みを浮かべた。
「知っています。実は電車が車両のトラブルか何かで遅れてしまいまして。本当なら十分余裕を持ってバスに乗れるはずだったんですけど……、タッチの差で行かれてしまいました。お恥ずかしい話、タクシーを使うほどの持ち合わせもなくて途方にくれていたんですよ」
「そうですか。こんな片田舎だと交通手段が限られて、ホントに不便しますよね。都会のほうならこんな時間にバスが終わってしまうなんて考えられないでしょう?」
曖昧に笑って女は頷いた。
「実は車で迎えにきてもらうことになっているんです。よろしければ乗っていきません? どちらまで行かれますか」
女が地名を口にする。それを聞いて男はかすかに微笑んだ。
「ああ、それなら、僕の家の先にあるところです。距離としてはそこまで近くないですけど、方向は同じですし、車ならすぐでしょう」
「助かります」
女ははにかみながら頭をさげた。
「でも、どうしてそんなところへ? あのあたりは何もないでしょう? 民家がぽつりぽつりあるくらいで泊まれるようなところは……」
その時、男のポケットから電子メロディーが流れた。
「あ、ちょっと失礼」
携帯を取り出すと、二、三の言葉を交わした後、すぐに切った。
「すみません。今、迎えを頼んだ奴からだったんですけど、何か用事をすませてから来るそうで……車が到着するまで少し時間がかかるかもしれません」
申し訳なさそうに男が謝った。女は、御気になさらず、別に急いでいませんから、と静かに微笑んだ。
夕日のせいか、男の目に、その女がとても美しく、そしてどこか儚げに映った。
「突っ立っているのもなんですから、座りましょうか」
「ええ」
そうして二人はバス停のベンチに腰掛けた。日はゆっくりと傾いていく。
「ダイエット中の女、って話知ってます? 実につまらない話なんですが。待っている間の退屈しのぎくらいにはなるんじゃないかしら」
何の前触れもなく、「ダイエット」などという単語が飛び出たので男は少々反応に困った。しかし、他に話すべき適当な話題もなかったので、「それ、どんな話ですか?」と相手に合わせることにした。
あるところにダイエット中の女性がいたんです。まあ、女っていうものは愚痴とダイエットの話が一番盛り上がる生き物ですから、特別珍しいことじゃありません。ええ、彼女も他の女性と同様、ワンサイズ下の洋服を着られるように、身体のシルエットを少しでもほっそりと見えるように、つまり綺麗になりたくってダイエットしていたんですね。
それで、彼女は朝のジョギング、寝る前のストレッチを始め、休日には市営のプールに行ってくたくたになるまで身体を動かしました。
けれど、どういうわけだか体重はいっこうに減らないんです。もともと運動するタイプじゃない彼女が無理やり運動をしたせいで、ひどい筋肉痛に悩まされているっていうのに、効果がないんですよ? おかしいな、と首をかしげていたんです。
ある日、彼女は奇妙なことに気がつきました。冷蔵庫の中身が妙に少ないんです。
彼女は一人暮らしには少々多すぎるくらいのまとめ買いをする習慣がありました。もともと会社勤めで忙しいのに加えて、連日ダイエットのために身体を動かしているわけですから、買い物に行く暇があまりないんです。それで、一度に大量の食材を買い込むというわけです。それこそ冷蔵庫に隙間ができないほどの量を。それが一週間もたたないうちに、冷蔵庫の中は、ガランとした印象になってしまっていたんです。
その間、もちろん、自炊をし、会社に持って行くお弁当を作り、古くなってしまったいくつかの食材を処分しましたが、やはりそれでもこれは異様です。
誰かが忍び込んでいる、そういう類いの想像が一瞬にして彼女の脳裏をかすめました。別れたばかりの彼のしわざかもしれない。その可能性は大いにありました。どさくさに紛れて彼にはまだこのアパートの合鍵を返してもらっていませんでしたからね。散々喧嘩した後でやっと別れた経緯があり、自分を怖がらせるための嫌がらせかもしれない、そう彼女は考えたのです。
窓の鍵を一つ残らずチェックし、玄関のドアもチェーンでロックしました。これならたとえ、鍵を持っていても中には入れません。
彼女は不安をぬぐい切れないままでしたが、日課のストレッチを入念にすることで不安を無理やり頭の中から消し去り、いつものように眠りにつきました。
朝、目覚めると、気持ちのいい晴天でした。軽く準備運動をした後、ジョギングに出かけました。ドアの外で彼が一晩中待ち伏せしていたらどうしよう、と悪い想像ばかりが浮かび上がりましたが、所詮は取り越し苦労にすぎませんでした。
汗だくになりながら帰宅し、すぐに体重計に乗りました。が、変わっていません。がっかりしながらも、さすがにのどの渇きを覚え、野菜ジュースを飲もうと冷蔵庫を開けました。その瞬間、彼女は凍り付いてしまったんです。
冷蔵庫の中は空でした。昨夜あったはずのものがないです。全部消えてしまいました。いいえ、正確にはそうじゃありません。食べ物を包んだパッケージを残して、中身だけが消えていたのです。
あれ、もしかして。
彼女は直感で思い当たることがありました。
ベッドに戻ると案の定です。枕元に細かな食べかすが残っていました。
彼女は思わず笑って自分の頭を小突きました。彼女はいっぱい買いだめしておきながらダイエットのため、食事制限を行っていたのですが、きっと無意識に起き出して冷蔵庫の中のものを食べていたのです。
そうです、冷蔵庫の食べ物がなくなっていた原因は、他ならぬ自分自身だったのです。
あれだけ運動して少しもやせなかったのもそれで説明がつきます。
最近、自分が食事をしている夢を見ることが多いとは思っていましたが、夢と現実がまざってしまっていたんでしょう。
しかし、これで安心だ、と彼女は思いました。だって家の中にはもう食べ物がないんですものね。夜中に起き出しても何かを口にすることは絶対に不可能です。これで順調にやせられる。彼女は自分がうきうきしているのを感じました。
予想どおり彼女はみるみるうちにやせていき、会う人会う人に「やせた?」「綺麗になったね」と声をかけられました。
それからの彼女は、自分の家で食べ物を一切口にしなくなりました。どんなに空腹であっても。
自分のおなかの音で起きてしまうことすらありました。
けれど、食べるわけにはいきません。せっかく綺麗になったのですから。今更肥えて醜い姿に戻りたくありません。
必死に運動するよりも食べないほうがこんなに効率がよいのだと気がついてしまったのですから。
静かな部屋に一人でいると、おなかの音がやけに大きく響きます。でもそれくらいの代償は彼女にとってたいしたことではありません。自分は綺麗なのですから。空腹なんて些細なことです。そう、とても些細なことなのです。
そんなある日、会社から帰宅すると、あまりにも空腹で、立ちくらみに近い感覚が彼女を襲いました。そしてそのまま、スーツ姿でベッドに倒れこむように眠ってしまったのです。
朝、目が覚めると自分がキッチンのテーブルに突っ伏して寝ていることに気がつきました。
そして肉の焼ける、なんとも香ばしい匂いの残り香が漂っていることに気がつきました。
目の前にはこってりとしたソースがこびりついたお皿があり、いくつかの骨がその上に載っていました。
また、やっちゃった。と彼女は思いました。ついに食欲に負けてしまったのです。
けれども、この家には肉なんて食材はありません。
あれ、と思ったと同時に彼女は異変に気がつきました。
お皿の隅に、いつも左手につけている指輪が油まみれになりながらちょこん、と載っていたのです。
彼女は悲鳴をあげながら自分の左手を眺めましたが、そこにはなにもありませんでした。……つまり、いえ、もう言わなくてもわかりますね。
食欲っていうのは生きるための必要不可欠な感情ですからね。誰もその強い欲求には勝てないって教訓の話でしょうね。
すっかり日は暮れていた。
「ごめんなさい。こういう話お嫌いでした?」
「いや、怪談が好きそうには見えなかったので、意外と言うか……。嫌いなわけじゃないんですよ?」
「そう、よかった。気分を害されたのかと思いました」
男の目が不意に女の手元にとまった。奇妙なことに、彼女は手袋をしているのだ。当然今はそんな季節ではない。しかし、もっと不自然なのは、手袋をしているのが片方――左手だけ、ということだ。
左手? まさか、まさか……。
今聞いたばかりの話を思い出し、男の背筋に悪寒が走った。しかし、女は白々しいほど整った微笑を浮かべて男の顔を見ている。
「車、まだ来ませんね。もう一つぐらい話す時間はありそうですけど、いかがかしら?」
左手からなるべく目をそらし、男は頷いた。
『収集編へ続く』
あとがき
グロくてすみません。ありえないオチですみません。怖い話が好きですみません。怖い話ってのは、想像力があればあるほど怖いみたいですね。怖がりの人は「うしろ」とか「つぶれたトマト」とか「一面の赤」といったワードだけでも怖がってくれます。あはは。
突発的に怖い話が思いつけば、いくらでも続けられる話だと思うので、気が向いたら続きます。気が向かなかったらこれで終わります。適当。
(と、思っていたら続きました。そちらもどーぞお楽しみ下さい)