あんぱん食べませんか
電車の中は閑散としていて、一両に私を入れてもほんの数人の乗客しかいなかった。
みな、一様に不自然すぎるくらい均一な距離を保って座っている。ある人は居眠りをして。ある人は窓の外で降りしきる雪を眺めながら。それぞれ、まるで何かにじっと耐えているように微動だにしないでいる。
私の目的の駅まではまだずいぶんと時間がかかる。だっていうのに、このただ座ってるだけの退屈で無駄な時間を有効に使うために役立ちそうな物を私は何も持っていなかった。文庫本とか、MDウォークマンとか……。
さすがに携帯を持っているから、高校の友達の誰かに適当なメールでも送りつければそれなりに時間は潰せるだろうけど、なぜか、今はそんな気になれなかった。仕方がないので私はただぼんやりと物思いにふけるほかなかった。
こういう時、私は昔のことばかり考えてしまう。幼稚園の遠足のこと。幼なじみとのケンカばかりしてた日々のこと。小学生の時に突然どこかにいなくなった、歳の離れた初恋の相手のこと、とかさ。
「あの、すいません」
不意に『数人』の中の一人が話しかけてきた。と、同時にその二十代くらいの男は私のすぐ隣の席に腰掛けてきた。丁寧な口調とは裏腹に、昔のクラスメイトでも見つけたみたいな態度だ。どこかぎこちないのに、それでいてそれを隠そうとしているみたいにやたらと親しげに接してくる……そんな感じ。何をしたいのか全然わからなかったから、私は男をにらむように凝視ししながら、何コイツという視線を送ってみた。だけど、露骨に不審がる私の態度を男は特に気にした様子もなく、突拍子もないことをさらりと言ってきた。
「あんぱん、食べませんか」
そんな奇妙なことを言うおかしな輩はなおざりな態度で適当にあしらうか、無視して隣の車両に行ってしまえば、それですむ話……のはずだったんだけど、無意識のうちに私は男にむかってうなずいていた。男は満足そうな笑顔を浮かべると、ボロボロの鞄の中からそこら辺のコンビニで売っているような、あんぱんを二個取り出した。そしてそのうちの一つを私の手の上に慣れた手つきで置いた。
私はとっさに思った。なぜあんぱんを二個も持ってるんだろう?
あんぱんとカレーパンならわかる。あんぱんとクリームパンでもまだわかる。二個入りのパックでもないのに、あんぱんを同時に二個も買うなんてよほどあんぱん好きじゃなきゃできない。私ならお茶もなしであんぱんを立て続けに食べるなんて考えただけでも口が甘ったるくてしょうがない。
あんぱんは昔から嫌いなんだよねぇ。
そう頭では考えていたはずなのに、すぐに私はあんぱんを口にしていた。まるで昔から繰り返しやってきたことを当然のごとく反復しているみたいだった。ビニールを破って開ける動作にも、そこから口に運ぶ仕草にも少しの無駄もなかった。
こんな怪しい男からもらった、いかにも怪しいあんぱんを食べるなんて馬鹿げてる。絶対にこのあんぱん何かおかしいって!その証拠に賞味期限が……。
「───あ」
賞味期限の表示を見た瞬間、ここまで出かけてるのに、どうしても思い出せないものを思い出せた時のような気分になった。
男が嬉しそうな、安心したような笑みを浮かべると、ちょうど電車が駅についた。そうして男は電車を降りていった。
扉が閉まり、電車が再び動き出したのを見届けると、私は残ったあんぱんを再びもふもふと食べ始めた。こんなものは捨ててしまったほうが安全なのは重々承知してる。でも、私は最後まで食べ続けた。捨てる気にどうしてもなれなかった。頭が考え事でいっぱいになって、混乱していたせいだと思う。きっとそうだ。
さっきの男が昔近所に住んでいた私の初恋のおにいさんに似ているような気がしてならなかった。
でもそんなわけない。だって生きていればもう三十は過ぎているはずだ。嫌いだって何度も言っているのにそれでもあんぱんを私にくれ続ける大のあんぱん好きのあの人に横顔がそっくりなのは目の錯覚か何かに決まっている。
あんぱんのビニールに刻印された製造年月日が、あの人が行方不明になった時期より少し前の数字に表示されているのだって何かの間違いだ。じゃなきゃ、たちの悪い冗談だよ。
だって、だって―――あの時と同じ味のするあんぱんを何年もの間、保存しておけるわけない。そんなの不可能だよ。こんなにも、完璧なまでに同じ味なんて………。
そうは思ったものの、私の目は勝手に電車の上の方に貼りつけてある、路線図をにらみつけるようにして見ていた。
そして、この電車はいつから『天国』なんていう駅を通るようになったんだろうと考えていた。
END