第一話 邂逅ーカイコウー

 

 

 

――――この道を通る時、修一はいつも少しだけ身構える。

 例えば、徒競走の時。スタートラインの前でピストルの合図を待つ気持ちに似ている。

 空気を突き抜けるような鋭い音が鳴らされるのは経験上、事前にわかりきっている。
 それでも自分の予想と、実際の合図の間には少なくとも数秒の誤差があり、そしてすぐ脇で打ち鳴らされるあの音は爆音さながらの大音量である。

 あの数秒の間に起こる張り詰めた気持ちは、どうも好きになれない。

 その家の横を通り過ぎる時、なんとなく忍び足になってしまうのが我ながら滑稽だ。

 しかし、『ヤツ』はささやかな気配でも敏感に感じ取る。

 その家は修一の身長と同じくらい高い塀と、庭先に植えられた木の茂みに囲まれている。その二つに隠されて『ヤツ』の姿はまったく見えない。

 ただ、鳴き声だけが響き渡る。

 うるさいことこの上ない。

 しかも、修一がこの一軒家の前を通って吠えられなかったことなど、ただの一度もない。
 百パーセントの確率で吠えやがる。

 なんかのセンサーかってんだ。
 修一は心の中で毒づく。

 幾度か、飼い主があまりにもうるさい犬をたしなめていた声を聞いたことがあるから、あえて人が来るたびに吠えるようにしつけているわけじゃないらしい。

 キャンキャン、と表現するほど甲高くもなければ、大型犬が発するような重低音でもない。その中間あたりの鳴き声は、修一がその家を通り過ぎ、かなり距離を置いた地点に行くまでやむことはない。

 気に病むほどではないが、少々わずらわしい。しかしこの道を通らないとなると、かなり遠回りになってしまう。

 だから今日も修一はほんの少し身構えながら家の前を通りかかった。

 それが、――今日に限って犬の鳴き声が聞こえなかった。

 あれだけ忌々しいと思ってのに、いざ吠えられないとなっても清々しい気持ちにならない。

 不可思議。違和感。

 赤信号がタイミングよく目の前で変わったが、その変わった色が青ではなく、ショッキングピンクだったような気分だ。逆に不審で落ち着かない。

 何かの手違いかもしれないと、歩調を緩める。

 かなりゆっくりと足を進めたとしても、家の奥行きなど、せいぜい数メートル。すぐに通り過ぎてしまった。

 結局、閑静な住宅地ののどかさをぶち壊すいつもの鳴き声は聞こえてこなかった。

 思えば、ココを通るようになったのは現在十五歳の修一がずいぶん小さい頃からだった。おそらく、十年近く経つ。

 犬にとっての十年といえば、相当な年月だろう。

…………死んだかな。

 正直、耳障り以外の何物でもないと思っていた。

「うるさいっ!」と姿の見えぬ犬に向かって怒鳴りつけたことも一度や二度ではない。

 だが。

 どうしてだか、胸の間を乾いた風が通り抜けるような気分になった。

 そういえば、あの犬の名前はなんだっただろうか。

 今まで一度も犬の姿を見かけたことはない。だから何の種類なのかさえ知らない。
 が、気弱そうな飼い主が気弱そうに呼びかけるのを耳にしていたので名前だけは知っている。それは、とても似合わないものだった。その印象だけは強烈だ。

 なんというか……高貴、というか、雅(みやび)な響きの、……。

 なんだっただろうか。

 思い出せない。

「まあ、いいか」

 口の中で小さくつぶやいてから、歩調をいつものペースに戻した。

 

 不意に、背後で足音がした。駆け足でもしているようなテンポのよさ。

 誰かがジョギングでもしているのだろうと見当をつけ、さして気にすることなく歩を進める。

 と、いきなり背中部分に強烈な衝撃を感じた。

 漫画的に表現するなら、
 
 どーーーーーーーーん。

 といった擬音がよく似合う、そんな勢い。

 誰かが修一に対し、タックルをかましてきた。

 不意打ちのため、当然のようにバランスを崩して倒れこんだ。

「なんなんだよ」

 怒りよりも、地面にぶつかった際の痛みと状況が理解できない戸惑いで、若干裏返った声になってしまった。

 道端でこんな不当で乱暴な扱いを受けるようなことをした覚えはない。

 見ると、一緒に倒れたのか、ペタンとアスファルトの上で修一と同い年くらいの少女が座り込んでいる。

「ごめんなさい。まだ慣れてないものだから脚の使い方がよくわからなくって。だって勝手が全然違うんだもの」

 謝りながら、意味のわからない釈明をしていた。

 年頃が同じでこの周辺に住んでいるならば、おのずと同じ中学に通っているはずだ。たいしてデカイ学校というわけでもない。直接の知り合いではなくとも、見覚えくらいはあるものだ。

 しかし、知らない顔だった。

「誰だ、お前」

 何者か率直に訊ねると、少女はうつむき加減におずおず、といった感じで答えた。

「す、涼風と申します」

「すずかぜ……?」

 その単語を聞いた時、修一の頭の中で小さな音がした気がした。それは切れかけていた記憶の糸が再び溶接される音。

 涼風。

 修一の記憶が確かならば、それは、例のうるさい犬の名前――。


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プチあとがき

わーい。新連載開始だぁ。

だーいぶ前にこの話の冒頭を思いついて、だーいぶ前にネット連載用に使おうと決めていたのに、この短い話を書き上げてアップするのに、ずいぶん時間を使ってしまいました。

とにもかくにも、物語の始まり始まりです。

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